チャイム

私は小学校・中学校・高校の頃、あまり勉強が好きな方ではありませんでした。
どちらかというと、勉強しに行くよりも友達に会えることを楽しみに毎日学校に行っていました。
ですので、登校してから家に帰るまでが楽しく、今でもその時の友達と昔話に花を咲かせます。
そんな私ですので、学校生活の中で授業の時間が一番長く感じられました。
高校の時は、確か60分を1コマとして授業があったかと思います。
大学の90分1コマに比べたら非常に楽なのですが、当時の私にとって
とても長く感じられました。
いつも時計を見ながら、はやくチャイムが鳴らないか心のなかでカウントダウンをしていた程です。
チャイムがなったときに、「あー、やっと終わったー。良し!!誰々君と話をしよう。」と思っていました。
とにかく遊ぶこと、楽しいことばかりを考えていたので、そのチャイムが鳴ることが喜びでした。
そのチャイムが鳴ると喜びを感じることは、お念仏と同じ感覚であると思います。
お念仏が届いた所が、阿弥陀如来さまの救いのはたらきが届いているのであります。
つまり、お念仏が聞こえた所が、救いが定まった所といえるでしょう。
私の口に出ている「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀如来さまの「必ず救う。我に任せよ」のお喚び声でありました。
先達の方々からの、「あなたをいつも見守っているよ。見捨てはしない。お念仏称えてくれよ」のお喚び声です。
チャイムが鳴ったことが、私の喜びであり、安心でありました。チャイムが私に届いたそのままが
私の喜びでありました。
なにも難しく考えることはありません。
・どのような仕組みでなっているのか、とか
・チャイムが鳴ったことを自分が喜べているか、とか
・そもそもチャイムが何なのか知ること、とか
そんな難しいことは必要ありませんし、私の側になにも必要はありません。
チャイムが鳴った、そのままが「あー良かった」と喜べるのです。等しく良い子にも、私のような生徒にも
チャイムの音は届いています。そのチャイムをただただ待ち遠しくしていた私でありました。
南無阿弥陀仏のお念仏についても同様です。
なにも難しく考える必要はありません。
・南無阿弥陀仏のお念仏がどのようなはたらきなのか理解していなくても、知識として持っていなくても大丈夫
・南無阿弥陀仏のお念仏を喜んだから、救いは決まるのではなく、聞くがそのままが救いなのです。
・南無阿弥陀仏について、お願いしたから届いたのではなく、届いていたことに気づかせて頂くのです。
難しく考える必要もなく、聞くそのままが救いが定まっているのです。
チャイムが鳴れば、授業が終わり喜んでいたのですが、
南無阿弥陀仏は、死ぬ時に聞けば大丈夫なのではなく、
今聞くそのままが、往生浄土が大丈夫なのです。

-法話

© 2024 専明寺(下松市)浄土真宗