夕日を見ながら

つい先日、夕食を終えて本堂の施錠をと思い、向拝(ごはい)の扉をしめてようとした時、
あまりに美しい夕日にじーっと見とれていました。
今まで何度も見ていた夕日でしたが、その日は雲ひとつなく山に沈んでいく中で
だんだんと赤くなり青空が染まっていく様子は、もう言葉には言い表しようがありません。
何度となく見ていた夕日でしたが、この夕日に何人の人が気づいていただろうかと疑問に思ったのでした。
いつもの私なら、食後はホームページを更新したり勉強会の資料を作ったりしています。
もしいつものようならば、部屋でしかも夕日に背を向けていたので気づかなかったでしょう。
これを機会に、外でもパソコンが出来れば、優雅なホームページ作りや優雅な勉強会の資料を作れる時間と
なると思いましたが電源がないので無理な訳でした。
いつも見ていた夕日ですが、おそらく忙しくいていたならば気づかなかったでしょう。
おそらくこんな夕日を何度も見落としていたことがあったでしょう。
いつも日は昇り西に沈んでいく中で、どれほど大切なものに気づかずに見落としていたことでしょうか。
夕日ならば、また明日も帰ってきますが、一度見落とし捨ててしまった物事はなかなか取り戻すことは難しいものです。
その夕日を見ながら、向拝に腰を下ろして夕日を見て、ゆったりとした時間の経過を感じるのでした。
お経の中に、西の彼方に極楽浄土があると説かれます。
このお経を大切にしてこられた沢山の方々が、この夕日を見ながらいろんな事を考えられたのかと思います。
あの夕日の沈む先に、先立って往かれた方を思い、さらに自分もやがて必ず参れると
手を合わされたことでしょう。
お浄土は、美しい世界・花咲き・鳥歌い・光りあふれる明るい世界とお聞かせいただいております。
けれども仏さまになったらお浄土にただ留まるのではないそうです。
西方の彼方の浄土に生まれて仏となったら、今度は、この世界に帰ってきて大切な人を導いていく存在になる
のです。ただ浄土でのんびりするのではなく、あの人もこの人も、多くの方を優しい心で、
今度は助けようと救うおうと仏のはならきとなって、私が飛び回ってはたらいていくのです。
この夕日を見ながら、一人また一人とご往生された方々が、この綺麗な夕日の姿となり、
この私に、浄土のすばらしさをお伝えくださったのではないでしょうか。
いつも身近にあって、綺麗と思わなかった夕日ですが、我が心を浄土へと向けさせてくださいました。
どんな日であろうと太陽は私を照らしています。晴れの日も雨の日も、雲に覆われていても
その光を届けているように、この私がどんなに忙しくしていようとも、
煩悩ばかりでいても、苦しみの中に沈んでいようとも必ず届いてくださる仏さまです。
感謝しなくてもお願いしなくても太陽は、いつも光をはなち、この私に届いておるように、
仏さまのはたらきも、この私が感謝しなくても、お願いしなくてもはたらいていてくださるのです。
その夕日を見ながらも、ただ綺麗な夕日と空と見るのではなく、
その夕日の先にある、新たな仏の世界を思わせて頂いたことでありました。

-法話

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