常に光照らしてくれる眼差し

今日の日差しは、春の陽気というよりも初夏の暑さほどではないでしょうか。
気温を見てみると、19度でしたので桜も「暑い暑い、春が終わってしまう」と急いで
花を咲かせてくれるほどでしょう。
太陽の光によって草花は育つように、人間は阿弥陀様の光・眼差しによって、たくさんの事を気づかせてくれます。
光と譬えていますが、実際に目に見える光ではありません。
お経の中には親鸞聖人のお正信偈の中に「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」と示されています。
書き下し文では「煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくて、つねに我を照らしたまふといへり」とあります。
これはもともと、源信和尚の『往生要集』にある「我またかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつること
あたわずといえども、大悲倦むことなくて、つねにわが身を照らしたまふ」という文によられたものです。
親鸞聖人が師と仰ぐ高僧七人がお正信偈の中に登場します。親鸞聖人自身の人間像を形成した七人ともいえるでしょう。
親鸞聖人が自らのことを「愚禿釈親鸞」や「罪悪深重の凡夫」などと名乗られていますが、この源信和尚も
「予がごとき頑魯のもの」(私のようなかたくなで愚かな者)と名乗られていることも共通しているのか、親鸞聖人が
源信和尚のお書物から学んでこられたからこそ出てきた言葉ではないでしょうか。
また源信和尚は「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と往生の要点を示し、
残された私たちに念仏の大切さを教えてくれます。
仏教の悪人とありますが、これは法律・道徳でいう人間の価値・判断・相対でいう悪い人とは違います。
仏教の悪人とは、抜きがたい自己への執着心、我が身が可愛いという自己中心の思い、利養の執心の「私」を指します。
「私は悪人ではない」と思われるでしょうが、確かに「法律を犯していない」地域に貢献する素晴らしい方でしょうが、
仏教のものの見方でいうと、私たち人間は、どこまで行っても煩悩を拭い去ることが出来ない凡夫(悪人)と自らを見ていくのです。
そもそも、煩悩がなければ「仏様」です。煩悩がなければ「摂取の光明」(阿弥陀様のお光)も目に見えることでしょう。
煩悩によって眼が障えられている=大悲の光が見えない
煩悩がない=大悲の光が見える
という構造です。しかし重要なことがあります。大悲が見えないから「ダメ」だとは言っていません。なぜなら
煩悩によって大悲の光は見えないけれど、阿弥陀様の光は確かに私たちを照らしていてくださるとのお示しだからです。
ここまでをまとめてみると、
・仏教でいう悪人とは、自己中心的な心、煩悩を拭い去れない私である
・煩悩によって阿弥陀様の大悲(光)のはたらきは見えないけれど、常に私たちを照らしてくださる
・親鸞聖人も源信和尚もみずからの事を悪人・凡夫・頑魯と表現されている
このように言えます。
長期出張で北海道に常例線と言って、2週間ほど布教に出ていたことがあります。
毎日、泊まる場所が違ってお昼ごろにお寺に到着しては90分の法話をさせていただいて、
また次の日に100キロも離れた場所に移動する、ホテルに泊まるといった生活が続いていました。
実際、法話をする時間は90分ですが、毎日の長距離の移動と慣れないホテル生活で少し疲労を感じていました。
ちょうど長期出張も折り返しの頃、思い切ってホテルにお願いをしてマッサージをしてもらうことにしました。
とても気持ちよく、すぐにウトウトと寝入ったのですが、最後のほうでいろいろとお話を聞かせてもらっていると、
どうやら猫背だから疲れがたまりやすいとのことでした。法話をしているときには、まっすぐに立っているつもりでも、
自分が楽な立ち方をしているために、だんだん猫背でずーっと話をしていたようです。
言われるまでは、自分ではまっすぐにしていたつもりですが、言われてみて初めて自分の姿に気づかされたことでした。
阿弥陀様の光は目で見ることはできませんが、お経は読むことが出来ます。お寺での法話を聞くことができます。
光を直接見ることはできなくても、そのお話に出あうことで、自らの生き方に気づかされることがあります。
親鸞聖人も源信和尚も、なにも自分を卑下して謙虚に自らを語ったのではありません。
阿弥陀様のお心をお聞かせいただく中で、どこまでいっても自分の我欲の姿に気づかれたからこそ、
ありのままの自分の姿を、そのような言葉で表現されたのでありました。
光は見ることが出来ません。しかし、そのみ教えに出遇い、自らの姿を見つめ直すことによって、
傲慢・怠慢・驕慢な我がありのままの心に気づいたときに、草花のような光のお育てになるのではないでしょうか。

-法話

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