念仏者は無碍の一道なり

歎異抄七条は
「念仏者は無礙の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、
天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障礙することなし。罪悪も業報を感ずるこ
とあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと云々。」
と、あります。この度のテーマ「念仏者は無碍の一道なり」という始まりの言葉から
引用しました。浄土真宗では修行という言葉はあまり使いません。それよりも
信心正因といわれるように、私の側の修行ではなく阿弥陀様より賜りたる
信心一つで往生決定するとお聞かせ頂くのであります。
そこで、この歎異抄七条に「信心の行者」とお記しになられた味わいを述べたいと思います。
親鸞聖人のお書物を見る限り、「信者」と記されている箇所は少ししかありません。
(和讃に2箇所、銘文に1箇所、名号徳に1箇所)
一方、「行者」という言葉は引文から御自釈にたくさん使われています。
浄土真宗では、行より信を強く示されているにも関わらず、親鸞聖人は
「信者」とは言わず「行者」とお記しになられているのであります。
なぜ「信者」とは言わず、「行者」と記されたのでしょうか。
・・・・・
ここでテーマにも挙げました「念仏者は無碍の一道なり」という言葉を見てみましょう。
この言葉について諸説あるのですが、この一節だけを見るならば「念仏は無碍の一道」と
見たほうが障りなく読めるのではないでしょうか。
「念佛は」と読むか、「念仏者は」と読む違いです。
(龍谷大学本・端ノ坊別本には「念仏者は」と書かれフリガナで「(ネンブツシャ)は」とあります。)
「念佛者は無碍の一道なり」
「念仏は無碍の一道なり」
このように「者」という文字があるかないかで、この一節だけ見るならば意味合いは大きく変わってきます。
なぜなら、主語が「念佛」か「念仏者」かと変わるのですから、「念佛」と「人」では大違いです。
さて、「人が無碍の一道」ならば、それは無碍の一道を歩めない人は条件から漏れてしまう訳です。
安心してください。そのような条件がある阿弥陀様ではありません。
「者」の字をめぐって二通りの解釈がある中で、
「者」を強調表現の助字とみて、「念佛は」として述語「一道なり」と対応させる説と、
「念仏者は」と解し、「一道」のあとに「行くもの」が省略されたという説があります。
「念仏者は」の1文を次文と対照すると「念仏者」が妥当と考えられます。
次文には「信心の行者」とあるので、前文の主張理由を記しているというのです。
現在、「念佛者は無碍の一道なり」と読むことが通例となっています。
また親鸞聖人の書簡でたびたび「念仏者」という語を用いられていることも重要なことです。
・・・・・
さて、親鸞聖人が「信者」という言葉はあまり用いず「行者」と記された訳を考えてみましょう。
まず一つに修行の「行」の立場について、自力を否定し、他力であることを明らかにするために
従来の仏教教団の指す「行者」と他力・信心を賜った上での「行者」の違いを示されたのであります。
言葉は同じでも、中身が違うのですから説明も大変です。だから何度も行者という
言葉が出てくるのです。他力の行者の場合
「行者まさしく金剛心を受けしめ、慶喜の一念相応して後」(正信偈)・・・金剛心と信心を表し、金剛心の行人と示したり、
「真の仏弟子」・「広大勝解者(ショウゲシャ)」・「分陀利華(フンダリケ)」というように、
信後の人を「信者」とは言わず、このように言い換えられているのである。
またもう一つに、「行者」と使われた場合、自然法爾章に出てくるように「はからいにあらず」と
「行者のはからい」ではない事を示します。念佛称えるこの行為一つも、我が思い計らいで称えているのではなく、
阿弥陀様のはたらきが私の口を通して現れていると言われます。
はじめて仏教の話を聞く人にとって、なんとも理解し難いものですね。
阿弥陀仏のはたらきが、私の行動となってくれた。阿弥陀様に動かされた姿がお念仏と思ってみてください。
以上をまとめてみますと、
題目「信心を第一とする浄土真宗が、親鸞聖人の上で『信者』とは言わず『行者』と用いられる理由」
考察する文章「念仏者は無礙の一道なり」
・信と行の関係を明らかにし自力他力の違いを表す上で、「(一般的な)修行を表す行者」と「(信を得た)行者」と示されたため
・「信後の行者」を他の言い回しで多々言い表されている
・一切の自力往生を否定し「行者」のはからいを認めない上で、念佛称える行者の姿を阿弥陀様のはたらきと見る
結語「自力・他力を明らかにし、自らの上に現れる念佛の姿を弥陀のはからいと頂き、それを金剛心(信心)の行者と
表すために、「信者」ではなく「行者」と用いられる。
最後に、、、
私たちが何気なく称える念佛や様々な仏事(法事や葬式など)で称える念佛は、
私の行動となってくださった阿弥陀様のはたらきでした。
私が称えて救われるんじゃない、仏さまの方から称えてくれよ!必ず救うと思いが届いた証拠でありました。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。その一声に、かならず救う、私に任せなさいとの仏さまの喚び声でした。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。良かった良かった称えてくれた。必ず浄土で会うんだぞとの現れでした。

-法話

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