捨てさせてくれるのも仏様

親鸞聖人のお書物『顕浄土真実教行証文類』(「けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい」また『教行信証』ともいう)
の中で、「仮」と「化」の漢字を使い分けて用いられています。
どちらの漢字も「け」と読みますが、
「仮」とは、「かり」とも読めるように、廃立(はいりゅう)、捨てモノという意味で用いられ、
また「化」とは、教化(きょうけ)、化益(けやく)というように、誘引という意味で用いられています。
『教行信証』の化身土文類(註釈版392頁)には
方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行
あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこ
れ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。
この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。
現代語訳に
「方便の願を考えると、そこには方便と真実とがある。また行と信とがある。その願とは臨終現前の願[(第十九願)]である。
その行とは定善・散善のさまざまな善根功徳を修めることである。その信とは至心・発願・欲生の自力の三心である。
この第十九願の行と信とをよりどころとして、釈尊は『観無量寿経』に、浄土の要門すなわち方便である仮の教えを顕された。」
つまりお経のお心を読み解いていく中で、表面的な意味と、裏に垣間見える阿弥陀様の慈悲のお心が表されているのである。
それが、「修行したら浄土に生まれ仏になりますよ」という表面的なものと、
「その修行さえも出来ない私であることを明らかに、一切の修行さえも出来ない私にご用意くださった(他力の)道」を記されています。
譬えるならば、はしごの譬えがあります。
2階へ上がるときに、自らの力でジャンプしようとも、よじ登ろうにも、登ることができません。
その時に使うのが、はしごであります。
1階から2階に上がる場合に、はしごを使って登るわけです。これが誘引という「化」を表します。
けれども、2階に上がれた、目的を達成した場合、もうそのはしごは不要です。
使いもしないはしごを持って生活する人など聞いたことがありません。
2階に登るという目的のためには、はしごが必要でしたが、
2階に登ってしまえば、もう目的は達成したのですから、はしごは不要になるのです。つまり捨てられるのです。これが「仮」です。
この思い通りにならない世の中(離別・不安・苦悩など)で、みずから苦しみ・思い悩む我々を憐れみ、
助けようと働いてくださるのが、阿弥陀という仏様です。
どれだけ修行しようとも、善行・功徳、日頃から善い行いに勤めていたとしても、苦しみを捨て去ることができない私を、
「修行してみよ、自ら苦しみのない浄土へ参れ」と表されている、これが第19願の方便の教えです。
けれども、一切の行さえも出来ない私に、ご用意くださったのが他力の救いでありました。
自らの力(自力)で超えていくのえはない、阿弥陀様の力(仏力・他力)で、この世を超えていく(浄土に生まれ・仏になる)のであります。
これまでは、自力のみで生きていた人生から、他力に任せられる人生に転じられていくのです。
もう他力に遇ったならば、自力の修行は不要です、捨てさせてくれるのも阿弥陀様のはたらきです。
2階に上がってしまえば、はしごは不要なように、捨てられるのです。
サルとバナナのお話です。
サルの手がギリギリ入る大きさの穴が開いた箱の中に、バナナが入っていました。
サルはバナナを掴もう掴もうと、手を精一杯入れて、バナナを取ろうとします。
けれども、手がギリギリ入る大きななので、バナナを掴んだ状態では、箱から手を抜くことができません。
あれやこれやと、一生懸命に手を抜こうとしますが、手を抜こうとすればするほど、箱に手を傷つけて
痛い思いをしてしまいます。
なぜ手が抜けないのか、それはずっとバナナを掴んでいたからです。
手が抜けなくなったサルは、どうしたか?
バナナを手放したら、不思議と手を抜くことができたのでした。
サルは人間を表し、バナナは人間の欲望(地位・名誉・お金・健康・若さ、また祈願・祈祷など)を表しています。
目の前の欲望に心を奪われ、それが全てだと思うのが人間の姿であるという教えを表した例え話です。
けれども、それらの欲望に心を奪われたままでは、一生、心安らぐ生活は来ないでしょう。
その手を離したときに、やっと安心できる生活が待っているのです。それが阿弥陀様にお任せできた他力に身を任せた
生活といえましょう。
どれだけ苦しみ迷っていた私であっても、ただ一つ、この救われる道があります。
それが「仮」の道、つまり自力の修行、自らの行いを捨てて、
「化」の道に誘引され、他力に任せることが出来たときに、身を任せることができるのです。
いままで執着を捨てさせてくれるのも、阿弥陀様のはたらきでありました。

-法話

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