灯火

ローソクは、自らの蝋を燃やしながら光を発しています。
最近、法事のお参りで、とても綺麗なローソクを見ました。
「とても綺麗なローソクですね。つけるのが勿体無いですね」
「どうぞ火を付けてください。でないとローソクが勿体無いですから」
と、おっしゃられました。確かにローソクの生まれてきた目的は(本懐)は
自らロウを燃やし、周りを光照らすことがローソクの意味かと思います。
ただ飾られただけでは、その本懐を遂げられません。自ら燃やして身を粉にしてこそ
周りを明るくすることが、ローソクがローソクとして存在する意味といえるのです。
自分の為に存在するのではなく、他の為に自らのロウ(いのち)を燃やす姿は、尊いものです。
このロウソクの姿こそ、阿弥陀如来さまの姿であります。その光に限りはないので、無量光の仏さまとも言われます。
ロウソクのロウに限りがなりのです。
また阿弥陀如来さまを智慧の仏さまとも言われます。この迷いの世界に生まれながら、迷いとも気づかない私たちを
闇を闇とも気づいていない私たちに、この智慧の光明で光照らして無明の闇を破していくのです。
阿弥陀様は、無量の光で、智慧の光明の象徴といえます。
では、私とはどのような存在でしょうか。自らを第一と考え、自分のために行動し、損得しか考えていないのが
人間の常ではないでしょうか。どれだけ他人のために尽くしていても、やはり腹の底には自己愛の塊が私の姿なのです。
それを、衆生・煩悩具足の凡夫であると親鸞聖人自らおっしゃられるのですから、私は言うに及びません。
その私を必ず救うと誓われた仏さまが、阿弥陀如来さまです。
さて、ここで問題です。
我が生命を今日も刻一刻と燃やしています。ローソクでいうと、蝋を燃やしています。
周りを光照らしているでしょうか。自らの為だけに、燃えてはいないでしょうか。
自分だけを照らすだけのローソクであれば、ローソクではありません。
他を照らしてこそ、ローソクなのです。
私の人生、何を本懐としていのち燃やしているでしょうか。
今日もすでにローソクの灯火は燃やしてしまいました。照らそうが、そうでなかろうが、刻一刻と過ぎていく人生。
その人生を振り返った時に、周りが光に満ち満ちていく世界を見れるか。
もしくは、周りが闇だったことに気づく人生かは、自分の人生の歩み方によるのです。
阿弥陀如来さまに出会えればこそ、真実の教えに出会えればこそ、
この人生を仏さまに光照らされればこそ、そのように思えるのです。

-法話

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