自らの姿

東日本大震災があったのは2011年3月11日、
今、2015年12月22日ですが、今なお復興という言葉が大事に思います。
振り返って見ますと、阪神淡路大震災の時には小学生ながらニュースで震災の様子を
テレビで見て衝撃を受け、漠然とですが被害の大きさを感じたことです。
その後、いつか忘れましたがニュースを見ていたら、当時の仮設住宅が不要になった、
つまり被災された方が仮設住宅を出られるようになったという、ニュースを見て
「あの震災からずっと仮設に暮らしている人がいたんだ。良かったなぁ」と思ったことです。
それから復興した神戸の町中を歩いてみても、被災の後だとは思えないほど
町は綺麗になっていました。その時、ふと思いました。
・復興という言葉が消えてなくなった時に、初めて復興したと言えるのではないか。
・また町は綺麗になっても、当時を経験された人には少なからず震災の傷跡は残っている事
・ニュースで被災を知っても、いつの間にか自分の心から震災を思う心さえも消えている事
東日本大震災を経験した私たちは、何を思っているでしょうか。
いつの間にか忘れてしまっているように思います。
いまだ復興という文字は消えていない、町も、人も、心も復興にはほど遠いはずなのに、
日々の生活の中で、人ごととして考えてしまいます。
『歎異抄』に親鸞聖人のお言葉がこのように記されています。
いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、
この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて
候ふべきと[云々]
【現代語訳】
この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思
っても、思いのままに救うことはできないのだから、このような慈
悲は完全なものではありません。ですから、ただ念仏することだけ
が本当に徹底した大いなる慈悲の心なのです。
このように聖人は仰せになりました
と、このように言葉を残されています。自らの姿をありのままにさらけ出して
くださった方だからこそ、その本質・この命の任せる場所を明らかにされたのであります。
時に震災を思い出し、ほどんどの時間を震災を忘れて過ごしている自分と気づけばこそ、
これからの人生の歩みが大きく変わるのではないでしょうか。人間には自覚の上の変容が
新たな成長の一歩なのだと思います。
命を私たちの思うように動かす(変えていく)ことなど出来ません。そこを任せるのは
阿弥陀如来さま、仏さまのお仕事です。
まとめとして、震災から4年ですがまだまだ問題はあります。
復興の定義は、人それぞれで、町並み、家、心と色んな問題がありますが、
今一度心を(被災された方々の方へ)向ける必要があるんじゃないでしょうか。
「出来ることを始める」忘れつつあった私ですが、そういう視座が求められています。
結果ではなく過程を問う、そこに自らの姿を見返していきたいものです。
お念仏に出遇ったものは、私の閉ざされた視座から一歩踏み出された世界を
味わう(見て・感じる)ことができる人生なのです。

-法話

© 2024 専明寺(下松市)浄土真宗