阿弥陀様が救うと言われる訳

なぜ阿弥陀様が、「かならず救う、我にまかせよ」といらっしゃるのかをお話します。
親鸞聖人のお書物『教行信証』には、このような問答形式でその答えが記されてあります。

Q,なんで阿弥陀様は本願(第十八願、つまり必ず救う気)を起こしたの??
A,これまでずっとみんな煩悩罪悪にけがれて、いつわりで真実の心がないからだよ。

と、このように記されてあります。つまり、人々を見渡していて、誰一人として悟りを開いていない、
苦しみの真只中に沈んでいく人、つまり私がいたからであります。(お釈迦様を除くー)

これを病気と薬に譬えられます。

みなさんは風邪を引かれた時に、病院に行かれますか?
病院に行けば先生が診断してくれて、その病気に合った薬を出してくれます。当然のことですね。
頭痛の人には、頭の痛みを止める薬を。胃の調子が悪い人には整腸剤を等ですね。

じゃあ、例えば世の中に頭が痛くなることがなければ・・・もし我々が頭痛を知らなければ、
頭痛薬は世の中に出てきたでしょうか?一つの薬を作るのに、発見するまでに確立が低く、
認可を得るまでに部屋いっぱいの書類が必要になると聞きます。

世の中に頭痛というものが無ければ、頭痛薬というものは出てこなかったでしょう。

阿弥陀様も同じです。人々が迷い・苦しむことがなければ救うという気も起きなかったのです。
けれども現実はどうでしょう、我々は、どの時代・国が違っても、どの家庭であっても、
この苦しみからは逃れられません。つかの間の楽であり、老苦・病苦・死苦につかまります。

この苦しみから、逃れられた人など聞いたことはありません。
ただただ苦しみの淵に沈んでいく人びとをご覧になって、ほっておけなかったのが阿弥陀様なのです。
苦しみの世界にいながら、苦しみの世界にいると気づかず、目の前の勝ち負け・貧富・損得に喜ぶ我々を、
けっして見捨てないと誓い、そして私の代わりにご修行されたのが阿弥陀様でありました。

病気      取り除く  = 薬   という方程式に当てはめるならば、
私の苦しみを 取り除く  = 阿弥陀様

病気があって、薬が生まれ届けられたように、
苦しみの私のために、阿弥陀様は「南無阿弥陀仏」とお念仏と成り、私に届けられました。

  ※病気を治す薬はまだない、治すのは自己治癒力であるという見解は、この喩え話には合いません。
   喩え話は、話の一端を担うものであり、全体を表しているものではないので、ここでは
   薬の成り立ちが病気が存在するために、開発されたという視点でお話しています。

まわりを見ても悟った人はいません。苦しみから開放されるという本も出されていますが、根本の
解決にはなっていないようです。どれだけ幸福を求めた所で、やがては崩れ去っていくようです。
あの豊臣秀吉でさえそうでした。

ならば、我々が本当に願うべきは何でしょうか。本当に依りどころ(頼りとできるもの)は何でしょうか。
それは、今現在、阿弥陀仏となられた仏さまに、ただ任せるだけなのです。
そこには、我々の言動は一切関係ありません。ただこの身を任せるだけなのです。

お医者さんから貰った薬は、必ず飲まれることでしょう。
阿弥陀様から頂いたお念仏、どうぞ大切にお唱えする人生をお歩みください。

-法話

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