1. はじめに:混迷の時代を照らす光
親鸞聖人によって著された『正信念仏偈』は、浄土真宗の教えの核心を七言句の詩の形で示された、私たちにとって非常に大切な聖教です 。日々のお勤めでも親しまれるこの『正信偈』の中でも、「五濁悪時群生海 応信如来如実言」(ごじょくあくじぐんじょうかい おうしんにょらいにょじつごん)という一節は、現代を生きる私たちに直接語りかけ、真の依り処を示してくださる、重要な導きとなっています。
この度は、「五濁悪時群生海 応信如来如実言」という句の意味を、分かりやすく、一つひとつ丁寧に読み解いてまいります。この句は、親鸞聖人が阿弥陀如来による救いへの深い感謝と理解を示された『正信偈』の中でも、特に私たちが生きるこの困難な時代(五濁悪時)と、そこに生きる私たち自身(群生海)、そしてその私たちに向けられた確かな救いの道(如来如実言)を明らかにしています。この句の深い意味を味わうことは、私たちが自身の置かれた現実を見つめ、阿弥陀如来の大いなる慈悲を理解し、そして阿弥陀さまにすべてを任せる信心の道を歩む上で、大きな力となるでしょう。
1.1 当該句の読み方と意味
【原文】 五濁悪時群生海 応信如来如実言
【書き下し文】 五濁(ごじょく)悪時(あくじ)の群生海(ぐんじょうかい)、応(まさ)に如来(にょらい)如実(にょじつ)の言(みこと)を信(しん)ずべし 。
【現代語訳】 五つの濁りに満ちた悪い時代に生きる、広大な海の如き私たち衆生は、まさしくお釈迦様(如来)が説かれた真実の言葉(如実の言)を信じ、依り処とすべきである 。
2. 私たちの現実:「五濁悪時」を理解する
まず、「五濁悪時」(ごじょくあくじ)とはどのような時代を指すのでしょうか。これは文字通り、「五つの濁りに満ちた悪い時代」という意味です。この理解することは、なぜ阿弥陀さまの救いが必要なのかを知る上で欠かせません。
この言葉は、お釈迦さまが入滅されてから時が経ち、仏の教えが正しく伝わりにくくなった「末法」(まっぽう)の時代を指し示す言葉としても使われます 。末法の世は、人々の精神性が乱れ、自らの力(自力)で修行し悟りを開くことが極めて困難になった時代とされます 。この「五濁悪時」という認識は、『仏説阿弥陀経』や『法華経』などの経典にも説かれており、仏さまの眼からご覧になったこの世界のありのままの姿を示しています 。
具体的に「五濁」とは、以下の五つの濁りを指します。これらは互いに関連し合い、この時代の困難さを形作っています 。
- 劫濁(こうじょく) - 時代の濁り: 時代そのものが濁り、戦争や飢饉、疫病といった社会的な災厄が増大する濁りです 。単に時間が経過したということではなく、社会全体が悪化していく様相を指します。
- 見濁(けんじょく) - 見解の濁り: 人々の考え方や思想が濁り、誤った見解や邪(よこしま)な思想がはびこる濁りです 。自己中心的な考えに固執し、「自分は正しい、他人は間違っている」と思い込み、真実が見えなくなっている状態です 。
- 煩悩濁(ぼんのうじょく) - 煩悩の濁り: 貪欲(むさぼり)、瞋恚(いかり)、愚痴(おろかさ)といった煩悩がますます盛んになり、人々の心や行動を支配する濁りです 。欲望のためには手段を選ばず、争いが絶えない状態を生み出します。
- 衆生濁(しゅじょうじょく) - 人々の濁り: 衆生(生きとし生けるもの、特に人間)そのものの質が低下し、心身ともに弱くなり、苦しみが多くなる濁りです 。本来持っているはずの良き資質が衰えてしまいます。
- 命濁(みょうじょく) - 生命の濁り: 人々の寿命が短くなる、あるいは生命そのものが軽んじられ、生きる意味や尊さが見失われる濁りです 。生命が単なる欲望の対象としか見られなくなり、いのちの尊厳が失われた空虚な状態を指します 。
これらの五つの濁りは、独立して存在するのではなく、深く結びついています。特に、誤った自己中心的な考え(見濁)が、貪りや怒りといった煩悩(煩悩濁)を増長させ、それが社会の混乱(劫濁)や人々の質の低下(衆生濁)、そして生命の軽視(命濁)へと繋がっていくと考えられます 。このように、時代、思想、感情、人間存在、生命そのものが相互に影響し合い、悪循環を生み出しているのが「五濁悪時」の深刻な実態です。この複雑に絡み合った濁りの深さゆえに、この時代に自力で悟りを開くことが困難であるとされるのです。
五濁のまとめ
濁りの種類(日本語) | 読み方 | 内容 | ||
---|---|---|---|---|
劫濁 | こうじょく | 戦争・飢饉・疫病など社会悪が増大する時代の濁り。 | ||
見濁 | けんじょく | 誤った見解や邪悪な思想がはびこり、自己中心的な考えに固執する濁り。 | ||
煩悩濁 | ぼんのうじょく | 貪り・怒り・愚かさなどの煩悩が盛んになり、人々の心と行動を支配する濁り。 | ||
衆生濁 | しゅじょうじょく | 人々の心身の質が低下し、苦しみが多くなり、本来の資質が衰える濁り。 | ||
命濁 | みょうじょく | 生命が軽んじられ、生きる意味や尊さが見失われ、寿命も短くなる傾向にある濁り。 |
この「五濁悪時」という現実認識は、決して私たちを悲観させるためではありません。むしろ、仏さまの智慧の眼によって明らかにされた、私たちが生きる時代の真実の姿です 。この厳しい現実を直視することによってはじめて、私たちはなぜ苦しみから逃れられないのか、そしてなぜ阿弥陀如来の広大無辺な慈悲と本願が、まさに今、この時代の私たちにとって絶対に必要なのかを深く理解することができるのです。それは、病を知って初めて薬の有り難さがわかるようなものです。
3. 私たち自身:「群生海」に漂う存在
次に、「群生海」(ぐんじょうかい)という言葉について見ていきましょう。これは「五濁悪時」に生きる私たち自身を指す言葉です。「群生」とは、群がり生きるもの、すなわち「衆生」や「有情」(うじょう)と同じく、生きとし生けるものすべて、特に私たち人間を指します 。
注目すべきは、「海」(かい)という比喩です。なぜ私たち衆生が「海」に喩えられるのでしょうか。それは、この輪廻(りんね)の世界に迷い、苦しむ衆生の数が限りなく多く、その苦しみや迷いの深さ、広がりが、まるで広大で底知れない海原のようだからです 。私たちは皆、この五濁悪時という荒波にもまれ、煩悩の海に沈み、どこへ向かうべきかもわからずに漂っている存在なのです 。
興味深いことに、「海」という比喩は、阿弥陀さまの本願に対しても用いられます(「本願海」)。これは単なる偶然ではありません。「群生海」が私たちの苦悩の広大さを示す一方で、「本願海」は阿弥陀さまの慈悲の広大さを示しています。海があらゆる川の水を受け入れるように、阿弥陀さまの本願は、清らかな者も濁った者も、善人も悪人も、どのような衆生をも分け隔てなく受け入れ、救い摂ってくださるのです 。
この二つの「海」の対比は、私たち「群生海」という苦悩に満ちた存在が、まさに阿弥陀さまの「本願海」という広大な救いの対象であることを示唆しています。私たちの抱える問題(苦悩の海)と、阿弥陀さまが差し伸べてくださる解決(慈悲の海)は、完璧に対応しているのです。私たちが「群生海」であればあるほど、阿弥陀さまの「本願海」の慈悲が深く、広く私たちを包み込んでくださる、その有り難さを知らされるのです。
4. 道を示す方:「如来」とは誰か
では、「五濁悪時群生海」に生きる私たちに「信ずべし」と呼びかける「如来」(にょらい)とは、どなたを指すのでしょうか。浄土真宗では「如来」といえば通常、阿弥陀如来を指すことが多いのですが 、この「応信如来如実言」の句における「如来」は、歴史上に実在されたお釈迦さまのことを指しています 。
親鸞聖人は、『仏説無量寿経』の教えに基づき、お釈迦さまがこの世にお出ましになられた究極の目的は、ただ一つ、阿弥陀如来の本願、すなわちすべての人々を救おうという阿弥陀さまの誓いを説き明かすためであった、と強調されます 。お釈迦さまの生涯にわたる教えは多岐にわたりますが、その核心には、この阿弥陀さまの救いを私たちに伝えるという、ただ一つの目的があったのです 。
お釈迦さまは、私たちと同じ人間として生まれ、修行の末にさとりを開かれました 。そして、そのさとりからご覧になった五濁悪時の衆生の苦しみを深く憐れみ、その苦しみから逃れる唯一確実な道として、阿弥陀さまの本願念仏の教えを説かれたのです。阿弥陀如来とその浄土は、私たちの通常の認識を超えた存在です 。五濁悪時の迷いの海に沈む私たちが、自力でその救いを発見することはできません。だからこそ、お釈迦さまという歴史上の仏陀がこの世に出現し、私たちにも理解できる言葉で、阿弥陀さまの救いの真実(如実言)を伝えてくださる必要があったのです 。
お釈迦さまは、いわば阿弥陀さまからのメッセージを私たちに届けてくださる、かけがえのない使者です。お釈迦さま(如来)が説かれた真実の言葉(如実言)を信じることは、そのまま阿弥陀さまの本願を信じることへと繋がります。この構造によって、阿弥陀さまという超越的な仏さまの救いが、歴史的な仏教の教えとして、私たちに確かなものとして届けられているのです 。
5. 真実のメッセージ:「如実言」とは何か
お釈迦さま(如来)が私たちに信じるよう勧められた「如実言」(にょじつの御言)とは、具体的に何を指すのでしょうか。「如実言」とは、「ありのままの真実の言葉」「真実にかなった教え」という意味です 。それは、この五濁悪時を生きる私たち凡夫にとって、唯一の救いとなる究極の真理を指し示しています。
浄土真宗において、この「如実言」とは、まさしくお釈迦さまが説き明かされた阿弥陀仏の本願のことです 。阿弥陀さまは、仏になる前の法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)の時代に、すべての生きとし生けるものを救うために四十八の誓願を建てられました 。その中でも特に、第十八番目の誓願(第十八願)は、本願の中の本願、真実の願いとして、浄土真宗の教えの中心とされています 。
第十八願には、「私が仏になるとき、すべての人々が、まことの心をもって私の浄土に生まれたいと願い、わずか十回でも私の名を称えたにもかかわらず、もし仏に生まれることができないようなら、私は決して仏とはならない。ただし、五逆罪を犯したり、仏の教えを謗る者だけは除く」と誓われています 。この誓いは、阿弥陀さまが私たちの側の能力や善行を条件とせず、ただ阿弥陀さまを信じ、名を称える(念仏する)者を必ず救うという、無条件の慈悲を表しています。
そして、この「如実言」は、阿弥陀さまの名号(みょうごう)である「南無阿弥陀仏」そのものに結晶しています 。念仏の意味を深く理解することが大切です。「南無阿弥陀仏」は、単なる仏さまの名前ではありません。それは、阿弥陀さまが私たちを救うために建てられた本願とその成就、そして私たちを救うためのすべての功徳が込められた、生きた働きそのものです。「南無」は「私にまかせなさい」という阿弥陀さまの呼びかけであり、「阿弥陀仏」はその呼びかけ主である仏さまです。この名号を称えることは、阿弥陀さまの本願に誓われた、私たちが浄土に往生するための正しい行い(「正定業」しょうじょうごう)なのです 。
したがって、「如実言」とは、単に救いについての情報を伝える言葉ではありません。それは、阿弥陀さまの本願という救済の力が、お釈迦さまによって説かれ、「南無阿弥陀仏」という名号となって、今ここにいる私たちに届けられている、その救いの働きそのものを指すのです 。この「如実言」を信じるということは、単に頭で理解するだけでなく、阿弥陀さまが成就してくださった救いの力を、そのまま受け入れることなのです。
6. この句の核心:濁世において真実の言葉を信じる
これまでの解説を踏まえて、「五濁悪時群生海 応信如来如実言」という句全体の意味を統合してみましょう。この句は、「五つの濁りに満ちた悪い時代に生きる、広大な海の如き私たち衆生は、お釈迦さま(如来)が説かれた真実の言葉(如実言)、すなわち阿弥陀仏の本願とその名号を信じ、依り処とすべきである」と私たちに強く呼びかけています 。
「応信」(おうしん)という言葉は、「まさに信ずべし」「信じなければならない」という、強い勧め、あるいは必然性を示しています。なぜなら、私たちが生きる「五濁悪時」はあまりにも濁りが深く、私たち「群生海」は煩悩にまみれてあまりにも無力であるため、自らの力でこの苦しみの海を渡り、悟りに至る道(自力聖道門 じりきしょうどうもん)は、事実上閉ざされているからです 。そのような私たちに残された唯一確実な道は、お釈迦さまが指し示してくださった「如来如実言」、すなわち阿弥陀さまがすべての人々を救うと誓われた本願(他力)に、ただ身を任せることなのです。
この句は、私たちが置かれた厳しい現実(五濁悪時群生海)と、それに対する唯一の希望である仏さまの真実の教え(如来如実言)とを、鮮やかに対比させています。それは、絶望的な状況の中にある私たちに、自己の力への執着を捨て、阿弥陀さまの大いなる力(他力)へと向き直るよう促す、慈悲に満ちた呼びかけです。
この力強い言葉の背景には、親鸞聖人ご自身の深い体験があります。聖人は、比叡山での20年にも及ぶ厳しい修行によっても、自らの煩悩を断ち切ることができず、真の悟りを得られないことに深く苦悩されました 。そしてついに、師である法然聖人との出会いを通して、阿弥陀さまの本願こそが、自分のような煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫が、この末法の世で救われる唯一の道であると確信されたのです 。この句には、その聖人自身の感動と、私たち後世の者たちにも同じ救いの道を歩んでほしいという切なる願いが込められています。
7. 解放への道:信心(しんじん)のはたらき
では、どのようにして私たちは「如来如実言」を信じ、救われていくのでしょうか。その鍵となるのが、浄土真宗の教えの中心である「信心」です。
浄土真宗でいう信心とは、私たちが自分の力で努力して作り出す信念や信仰心ではありません 。それは、阿弥陀如来が私たちを救おうと願われる真実の心(本願)が、そのまま私たちの心に届き、疑いなく阿弥陀さまの本願を信じ、お任せする心として現れたものです。それは阿弥陀さまから賜るものであり、「他力」によって恵まれるご信心なのです。このご信心こそが、阿弥陀さまの第十八願に誓われた「至心信楽」であり、私たちが浄土に往生するための真実の因(原因)となります 。
この他力の信心は、まさに私たち「凡夫」のために用意されたものです 。凡夫とは、智慧も浅く、煩悩に満ち溢れ、自らの力では迷いの世界から抜け出すことのできない、愚かな私たち自身のことです。浄土真宗の教えは、このような凡夫が、凡夫であるという事実を深く自覚したところに、阿弥陀さまの救いがはたらくことを明らかにします。
そして、この阿弥陀さまから賜る信心が定まったとき、驚くべき約束が与えられます。それが、後に『正信偈』で説かれる「不断煩悩得涅槃」(ふだんぼんのうとくねはん)という教えです 。これは、「煩悩を断ち切ることなくして、涅槃(ねはん、さとりの境地)を得る」という意味です。つまり、私たちは、この身に貪りや怒り、愚かさといった煩悩を抱えたままで、阿弥陀さまの本願力によって、必ず浄土に往生し仏となる身(正定聚 しょうじょうじゅ)に定まるのです。私たちの煩悩や欠点は、阿弥陀さまの救いの妨げにはなりません。むしろ、そのような私たちであるからこそ、阿弥陀さまは放っておけないと、その大いなる慈悲の網で救い摂ってくださるのです 。
このように見てくると、「五濁悪時群生海」という私たちの絶望的な状況と、「如来如実言」という救いの真実との間を結びつけ、救いを現実のものとする要が、まさに阿弥陀さまから賜る「信心」であることがわかります。この信心が定まることによって、客観的な真理である阿弥陀さまの本願が、私たち一人ひとりにとっての主観的な救いの事実となるのです。道は、自分自身を変えようと努力することから始まるのではなく、私たちに向けられた阿弥陀さまの本願の呼びかけ(南無阿弥陀仏)を聞き、そのままお任せすることから開かれるのです。これこそが、あらゆる凡夫にとって開かれた、浄土真宗の救いの道です。
8. 結論:本願の光に生かされて
親鸞聖人が『正信偈』に示された「五濁悪時群生海 応信如来如実言」の一節は、混迷を深める現代を生きる私たちにとって、力強い導きとなるメッセージです。それは、お釈迦さまが説かれた教えの核心として、次のように要約できます。「この五つの濁りに満ちた困難な時代に生まれ、迷いの海に沈む私たち衆生は、他のどのような道にも頼るのではなく、ただ、お釈迦さまが明らかにされた阿弥陀如来の真実の教え、すなわち、すべての人々を必ず救うという阿弥陀仏の本願とその結晶である名号「南無阿弥陀仏」を深く信じ、依り処としなさい。」
この句は、「五濁悪時」という厳しい現実と、私たち自身の「凡夫」としての限界を率直に認めるところから始まります。しかし、それは決して私たちを絶望させるためではありません。むしろ、そのような私たちであるからこそ、阿弥陀さまの限りない慈悲が差し向けられているという、大いなる希望の光を示してくださるのです。「如来如実言」として示された阿弥陀さまの本願は、まさにこの濁世の闇を照らし、苦悩の底にある私たちをそのまま抱き摂ってくださる、無碍(むげ)の光明です。
この救いの道は、特別な修行や能力を必要としません。ただ、阿弥陀さまの呼び声である「南無阿弥陀仏」に耳を傾け、そのお心を疑いなく受け入れ、すべてをお任せする「信心」一つで開かれるのです。
この『正信偈』の句を深く心に刻み、日々の生活の中で繰り返し味わいましょう。そして、この五濁悪時という現実の中にあっても、常に私たちを照らし護ってくださる阿弥陀さまの本願の光を信じ、南無阿弥陀仏のみ名を称えつつ、感謝と喜びのうちに、力強く人生を歩ませていただきましょう 。