1. はじめに:救いの光から、救いの道へ
『正信偈』は、親鸞聖人が阿弥陀仏の救いの真実を讃えられた、浄土真宗の教えの要です。
前回までは、阿弥陀仏が成就された本願の徳が、十二の光明となって、すべての衆生を遍く照らし、その恩恵が例外なく私たちに及んでいることが示されました(「一切群生蒙光照(いっさいぐんじょうむこうしょう)」)。
では、その光に照らされている私たちは、具体的に どのようにして 救われるのでしょうか? その救いの道筋、浄土へ往生するための確かな「行」と「因」を明らかにするのが、続く第十七句・第十八句「本願名号正定業(ほんがんみょうごうしょうじょうごう) 至心信楽願為因(ししんしんぎょうがんにいん)」です。この二句は、浄土真宗の救いの極めて重要な箇所です。
2. 第十七句:本願名号正定業 (ほんがんみょうごうしょうじょうごう) – 阿弥陀仏の本願が成就した名号こそ、往生の正しい行
書き下し文と現代語訳
- 書き下し文: 本願(ほんがん)の名号(みょうごう)は正定(しょうじょう)の業(ごう)なり
- 現代語訳: 阿弥陀仏の本願によって成就された名号(南無阿弥陀仏)こそが、私たちが浄土に往生するための正しく定まった行(おこない)である。
重要語句の解説
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本願名号 (ほんがんみょうごう):
- 本願 : 阿弥陀仏が、仏になる前の法蔵菩薩であった時に、「すべての衆生を必ず救う」と誓われた根本の願いです。特に、第十八願「念仏往生の願」(心から信じ念仏する者を必ず浄土に生まれさせるという誓い)を指します。
- 名号 : 阿弥陀仏の本願が成就し、その救済の力と慈悲が完全に顕れた「南無阿弥陀仏」というお名前です。単なる名前ではなく、阿弥陀仏のすべての功徳と救済力が込められた、はたらきそのものです。「本願名号」とは、名号が本願と一体であり、本願の力がこの名号を通して私たちに届くことを示します。
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正定業 (しょうじょうごう):
- 「正しく定まった行業(ぎょうごう)」という意味で、私たちが浄土に往生し仏と成るための、唯一絶対の正しい行いを指します。
- 浄土宗の祖師・善導大師(ぜんどうだいし)は、様々な往生のための行いの中で、阿弥陀仏の名を称えること(称名(しょうみょう))こそが、阿弥陀仏の本願に最もかなう行いであるとして、これを「正定業」と名付けました。
- 「定」には、この行いによって往生が間違いなく定まる(決定(けつじょう))という意味があります。
- 重要なのは、この正定業は、私たちが自力で行う修行ではなく、阿弥陀仏が私たちのために選び定め、完成させてくださった「他力」の行いであるという点です。その効果は、私たちの能力や努力に左右されず、阿弥陀仏の本願力によるのです。
解説:名号が往生の行となる理由
なぜ「南無阿弥陀仏」と称えることが、浄土往生の正しい行(正定業)となるのでしょうか。それは、阿弥陀仏が、私たち凡夫が自らの力では決して迷いの世界を離れられないと見抜かれたからです。そこで阿弥陀仏は、私たちに代わって計り知れないほどの長い時間修行され、そのすべての功徳と救済力を、この「南無阿弥陀仏」という名号の中に成就させ、私たちに与えてくださったのです。
この名号は、阿弥陀仏の本願が「必ず救う」と誓った通りに完成した証(あかし)であり、私たちがただ受け取るだけで、浄土への往生が決定する力を持っています。したがって、私たちが称える「南無阿弥陀仏」は、単に仏の名前を呼ぶ行為ではなく、阿弥陀仏が成就された救いの力そのものを受け止め、称えることであり、それ自体が私たちの往生を決定づける正しい行(正定業)となるのです。
3. 第十八句:至心信楽願為因 (ししんしんぎょうがんにいん) – 心から信じ喜ぶ信心こそ、往生の真実の原因
書き下し文と現代語訳
- 書き下し文: 至心(ししん)信楽(しんぎょう)の願(がん)を因(いん)とす
- 現代語訳: 阿弥陀仏の第十八願(至心信楽の願)に誓われた、心から信じ喜ぶ信心(しんじん)が、浄土往生の真実の原因となる。
重要語句の解説
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至心信楽 (ししんしんぎょう):
- 阿弥陀仏の第十八願に説かれる三つの心(至心・信楽・欲生我国(よくしょうわがこく))の中にあり、疑いの全くない、真実の信心を表します。
- 「至心」はきわめて誠実な心、阿弥陀仏の側の偽りのない真実の心を指します。私たち凡夫には本来、真実の心はありません。
- 「信楽」はその阿弥陀仏の真実の願い(本願)を疑いなく信じ、心から喜ぶ心を意味します。
- 浄土真宗における「至心信楽」の信心は、私たちが自分の力で作り出す心(自力の信心)ではなく、阿弥陀仏の本願のはたらきによって、阿弥陀仏の真実心(至心)と、本願を疑いなく信じ喜ぶ心(信楽)とが、私たちに与えられた(回向(えこう)された)心なのです。阿弥陀仏からの「われにまかせよ、必ず救う」という呼びかけ(本願招喚の勅命)を聞き、その仰せにそのまま従う心が他力の信心です。
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願為因 (がんにいん):
- 「願(がん)を因(いん)とす」とは、阿弥陀仏の本願(特に第十八願)に誓われた信心が、私たちが浄土に往生するための真実の「原因」である、という意味です。
- 浄土真宗では、往生の正しい原因を「正因(しょういん)」と呼び、それは阿弥陀仏から賜る「信心」であると定めます。これを「信心正因(しんじんしょういん)」といいます。
- 救いの原因は、私たちの側の行いや努力、心の状態にあるのではなく、阿弥陀仏の本願とそのはたらきによって与えられる信心そのものにあるのです。原因(因)も結果(果)も、すべて阿弥陀仏のはたらき(他力回向)による、というのが浄土真宗の根本的な立場です。
解説:信心が往生の因となる理由
阿弥陀仏の第十八願には、「至心(ししん)に信楽(しんぎょう)して、わが国(くに)に生(しょう)ぜんと欲(おも)いて、乃至(ないし)十念(じゅうねん)せん。もし生(しょう)ぜずは、正覚(しょうがく)を取(と)らじ」(心から信じ喜び、私の国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏を称える者を、もし生まれさせることができなければ、私は仏にならない)と誓われています。
この「至心信楽」の信心は、阿弥陀仏が私たち凡夫に与えようと願って完成されたものです。それは、第十七句で示された「本願の名号」、すなわち「南無阿弥陀仏」を聞き、疑いなく受け入れた時に、私たちの心に阿弥陀仏から恵まれるのです。
この阿弥陀仏から賜った他力の信心をいただいた瞬間(一念(いちねん))に、私たちは阿弥陀仏の救いの対象として決定し、もはや迷いの世界に流転(るてん)することのない身(正定聚(しょうじょうじゅ)不退転(ふたいてん)の位(くらい))となります。往生は未来のことではなく、信心をいただいた現在においてすでに定まるのです。だからこそ、この阿弥陀仏から与えられた信心が、浄土往生の直接的で唯一の正しい原因(正因)となるのです。
この「信心正因」の教えは、どのような善行(ぜんぎょう)も積むことができず、煩悩にさいなまれ続ける私たち凡夫にとって、唯一の救いの道を示すものです。往生の成否が私たちの努力や資質にかかっているのではなく、阿弥陀仏の側の本願と、それによって与えられる信心にかかっているからです。
4. 浄土真宗の救いの核心:他力の信心と報恩の念仏
二句の関係性:行信不二の救い
『正信偈』の第十七句「本願名号正定業」と第十八句「至心信楽願為因」は、深く結びついて浄土真宗の救いの全体像を示しています。
第十七句は、救いの具体的な方法・行としての「本願の名号」(南無阿弥陀仏)が、往生を決定させる正しい行い(正定業)であることを明らかにします。第十八句は、その名号を受け取り、浄土往生の真実の原因(正因)となるのが、阿弥陀仏の本願に誓われた「至心信楽」の信心(しんじん)であることを示します。
重要なのは、往生の「行」である名号も、往生の「因」である信心も、どちらも私たちの力(自力)によって生み出されるものではなく、阿弥陀仏の本願力(他力)によって私たちに与えられる(回向される)ということです。阿弥陀仏が成就された名号を聞き、その名号に込められた「必ず救う」という本願の呼びかけに応えて疑いなく信じおまかせする心(信心)が起こる。そして、その信心をいただいた時に往生が定まるのです。このように、行(名号)と信(信心)は、阿弥陀仏の救済のはたらきにおける表裏一体の両面であり、切り離すことはできません。
信心正因・称名報恩の教え
この二句に示される浄土真宗の救いのあり方を、簡潔に表す言葉が「信心正因(しんじんしょういん)・称名報恩(しょうみょうほうおん)」です。
- 信心正因 (しんじんしょういん): 阿弥陀仏からいただく他力の信心こそが、浄土往生の唯一の正しい原因(正因)である、という意味です。私たちの側の条件(善悪、能力、心の状態など)は、往生の決定には一切関係ありません。
- 称名報恩 (しょうみょうほうおん): 信心をいただいて往生が定まった後に、私たちが称える「南無阿弥陀仏」のお念仏は、往生のための手段や条件(因)ではなく、私たちを救ってくださった阿弥陀仏への尽きることのない感謝の心(報恩(ほうおん))の現れである、という意味です。
この「信心正因・称名報恩」の教えは、浄土真宗の独自性を際立たせる重要な点です。救いは信心をいただく一念で決定し、その後の称名念仏は感謝の表現であるという理解は、浄土真宗の特徴といえるでしょう。
5. まとめ:南無阿弥陀仏のよび声に応える
『正信偈』の第十七句「本願名号正定業」、第十八句「至心信楽願為因」は、浄土真宗における救いの核心を凝縮して示しています。この二句は、私たちが浄土に往生するための行(ぎょう)である「名号(みょうごう)」と、その往生の原因(信心)が、ともに阿弥陀仏の本願力(他力)によって成就され、私たち凡夫に与えられるものであることを明らかにしています。
本願の名号(南無阿弥陀仏)は、阿弥陀仏が私たちのために完成された救済の力そのものであり、往生を決定づける唯一の正しい行(正定業)です。そして、その名号を聞き、疑いなく信じ喜ぶ心(至心信楽の信心)こそが、浄土往生の真実の原因(正因)なのです。
この教えは、私たち自身の力や努力によっては到底救われないことを深く自覚された親鸞聖人が、阿弥陀仏の大いなる慈悲によって開かれた道です。阿弥陀仏は、今この瞬間も「南無阿弥陀仏」となって、「われにまかせよ、必ず救う」と私たち一人ひとりに呼びかけ続けてくださっています。この呼び声を深く聞き(聞法(もんぽう))、疑いなく信じおまかせすること(信楽(しんぎょう))が、私たちが迷いの苦しみから解放される唯一の道なのです。
この他力の救いは、善人であろうと悪人であろうと、すべての人々に平等に開かれています。私たちは、どのような過ちを犯し、どのような煩悩に悩まされようとも、阿弥陀仏の摂取不捨の光明の中に常に抱かれており、決して見捨てられることはありません。この広大無辺な阿弥陀仏のご恩に気づかせていただいたならば、この報恩(ほうおん)の念仏のうちに、阿弥陀仏と共に、力強く人生を歩ませていただきましょう。