はじめに:『正信偈』に込められた親鸞聖人の願い
『正信偈』は、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人がお作りになりました 。正式には『正信念仏偈』(しょうしんねんぶつげ)といい、「正しい信心のうた」という意味が込められています 。
親鸞聖人は、阿弥陀仏という仏さまの深い慈悲に救われた喜びと感謝の思いを、この『正信偈』に記されました 。そして、私たち一人ひとりが、阿弥陀仏の救いに出会い、心安らかな人生を歩んでほしいと願われたのです 。
今回は、その『正信偈』の中の一節、「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」(のうほついちねんきあいしん ふだんぼんのうとくねはん)という句に込められた、深い意味を一緒に味わってみましょう。
「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」とはどういう意味?
まず、この句の読み方と意味を見てみましょう。
- 書き下し文: よく一念喜愛(いちねんきあい)の心(しん)を発(ほっ)すれば、
煩悩(ぼんのう)を断ぜずして涅槃(ねはん)を得(う)るなり 。 - 現代語訳: 阿弥陀仏の救いを信じ喜ぶ心(信心)が(仏の力によって)起きたならば、煩悩を自分の力で断ち切ることなくして、(浄土で)涅槃(さとり)を得ることが定まる 。
少し難しい言葉が出てきましたね。それぞれの部分をもう少し見ていきましょう。
- 「能発一念喜愛心」(のうほついちねんきあいしん)
これは、「阿弥陀仏の救いを信じ、喜ぶ心(信心)が、一念という短い瞬間に起こること」を意味します 。大切なのは、「能発」の「能」が示すように、この信心は私たちが自分で努力して起こすのではなく、阿弥陀仏の力(他力)によって、私たちの中に”起こさせていただける”ものだということです 。阿弥陀仏の慈悲に触れた時に、自然と湧き上がる喜びと信頼の心、それが「一念喜愛心」です 。 - 「不断煩悩」(ふだんぼんのう)
これは、「煩悩を断ち切らないで」という意味です 。煩悩とは、欲や怒り、ねたみなど、私たちを煩わせ、悩ませる心のことです 。私たちは、この煩悩から完全に自由になることは難しい存在です 。この句は、そんな私たちでも、煩悩をすべて無くさなくても大丈夫だと教えてくれています。 - 「得涅槃」(とくねはん)
これは、「涅槃を得る」という意味です 。涅槃とは、煩悩の火が完全に消えた、仏さまのさとりの境地、究極の安らぎの世界を指します 。浄土真宗では、この句の「得涅槃」は、信心をいただいた瞬間に、この人生を終えた後に必ず阿弥陀仏の浄土に往き生まれ、そこで仏のさとり(涅槃)を開く身に定まる、という「救いの保証」を意味します 。
なぜ、煩悩を抱えたままで救われるの? - 阿弥陀仏の「他力」
「煩悩を断ち切らなくても、さとりの境地に至ることが定まる」というのは、少し不思議に聞こえるかもしれません。仏教では通常、煩悩をなくすことが悟りの道だと考えられているからです 。
では、なぜ浄土真宗ではこのように教えられるのでしょうか?
それは、阿弥陀仏の本願とその力(他力)によるからです。
親鸞聖人は、私たち人間は、自分自身の力だけではどうしても断ち切ることのできない深い煩悩を抱えた存在(凡夫)であると深く見つめられました 。欲や怒り、愚痴といった煩悩は、私たちの人生から切り離せないものなのです 。
阿弥陀仏は、そんな私たちの姿をすべてお見通しの上で、「どのような者であっても、必ず救いとる」という誓い(本願)を建てられました 。そして、その誓いを成就させるための、計り知れない力(他力)をお持ちです 。
浄土真宗の救いは、私たちが自分の力で煩悩をなくしたり、善い行いを積み重ねたりすることによって得られるものではありません。救いのすべては、阿弥陀仏の側で用意されているのです 。
ですから、私たちがどれほど深い煩悩を抱えていようとも、それが阿弥陀仏の救いの妨げになることはありません 。阿弥陀仏の広大な慈悲の光は、私たちの煩悩をも包み込み、照らしてくださるのです 。
これが、「不断煩悩得涅槃」と言われる理由です。
救いの要となる「信心」とは?
では、阿弥陀仏の救いをいただくために、私たちにとって何が大切なのでしょうか? それが「信心」です。
『正信偈』にも「正定の因は唯信心なり」(仏になる身と定まる原因は、ただ信心一つである)とあるように、浄土真宗では、阿弥陀仏からいただく信心こそが、救いの唯一の要(かなめ)であると教えられます 。
この信心は、私たちが「信じよう」と努力して作り出すものではありません 。阿弥陀仏が、その本願の力によって、私たちに与えてくださる(回向される)ものなのです 。
信心とは、阿弥陀仏の本願(必ず救うという誓い)を疑いなく受け入れ、すべてをお任せする心です 。それは、「自分は自力ではどうにも救われない存在だ」という深い自己への気づきと、「そんな私をそのまま救ってくださる阿弥陀仏の力は確かだ」という仏さまへの絶対的な信頼が一つになった心とも言えます。
この信心をいただくと、心からの喜び(歓喜)と、阿弥陀仏への深い感謝の気持ちが自然と湧き上がってきます 。そして、その感謝の気持ちの表れとして、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えずにはいられなくなるのです 。
自分の力で頑張る道との違い
仏教には、様々な教えや実践の道があります。大きく分けると、自分の力(自力)で厳しい修行を積み重ね、煩悩をなくして悟りを目指す道(難行道、なんぎょうどう)と、阿弥陀仏の力(他力、)を信じ、すべてをお任せして救いをいただく道(易行道、いぎょうどう)があります 。
浄土真宗は、後者の「他力の道」「易行道」です。親鸞聖人は、私たちのような煩悩を抱えた凡夫にとって、自分の力だけで悟りを開くことは極めて難しいと考えられました 。だからこそ、阿弥陀仏が用意してくださった、誰にでも開かれた易しい救いの道、すなわち他力本願の道を示してくださったのです 。
「不断煩悩得涅槃」の教えは、まさにこの他力の道の核心を表しています。自分の力で煩悩をなくす必要がないのは、救いのすべてが阿弥陀仏の力によって成し遂げられるからです。
この教えが現代に生きる私たちに語りかけること
「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」の教えは、現代を生きる私たちにとっても、多くの示唆を与えてくれます。
- ありのままの自分を受け入れる安心感:
私たちは、つい自分の欠点や不完全さに悩み、自己嫌悪に陥りがちです。しかし、この教えは、「煩悩を抱えたままでいいんだよ」「そのままで、あなたは阿弥陀仏に受け入れられているんだよ」と語りかけてくれます 。これは、深い安心感と自己肯定感につながるのではないでしょうか。心理学などで言われる「自己受容」や、森田療法の「あるがまま」の考え方にも通じるものがあるかもしれません 。 - 感謝から始まる生き方:
「煩悩を断たなくていい」と聞くと、「じゃあ、努力しなくてもいいのか」「悪いことをしてもいいのか」と誤解されるかもしれません 。しかし、そうではありません。阿弥陀仏の限りない慈悲に触れ、信心をいただくとき、私たちは深い感謝の念に包まれます。そして、その感謝の心が、自然と「南無阿弥陀仏」のお念仏となり、日々の言動にも変化をもたらしていくのです 。煩悩はなくならなくても、煩悩との向き合い方が変わってくるのです。 - 苦しみや不安の中でも:
私たちの人生には、思い通りにならないこと、苦しいこと、不安なことがたくさんあります 。しかし、どのような状況にあっても、阿弥陀仏は常に私たちを見守り、寄り添い、救おうとはたらき続けてくださっています 。そのことに気づかせてくれるのが、この教えです。人生の様々な出来事を、阿弥陀仏の慈悲の中で受け止め直していく視点を与えてくれます。
おわりに:『正信偈』と共に歩む
『正信偈』は、親鸞聖人の深い信仰の告白であり、私たちへの温かいメッセージです。今日まで多くの人々に読まれ、となえ続けられてきたのは、そこに時代を超えて私たちの心に響く真実が語られているからでしょう 。
「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」の句は、私たちがどのような存在であっても、阿弥陀仏の大きな慈悲の中に抱かれ、救われていく道があることを力強く示しています。
日々の生活の中で、『正信偈』をとなえ、その意味を味わいながら、阿弥陀仏の慈悲に触れ、感謝のお念仏と共に、心豊かに歩んでまいりましょう。