「覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪」の意味をやさしく解説

はじめに:法蔵菩薩の探求の始まり

『正信偈』(しょうしんげ)は、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人が、阿弥陀さまの救いの真実とその教えが私たちにまで届けられた歴史を、深い感動と感謝をもって記された、私たち門徒にとって最も大切な聖教(お聖教)です 。

冒頭の二句「帰命無量寿如来 南無不可思議光」では、親鸞聖人の阿弥陀さまへの絶対的な帰依(きえ)の心が示されました 。続く三句・四句「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所」からは、阿弥陀さまがまだ仏になる前の修行時代(因位)、「法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)」として、師である世自在王仏(せじざいおうぶつ)のもとで道を求め始められた、壮大な物語が始まります 。

今回解説する第五句・第六句「覩見諸仏浄土因(とけんしょぶつじょうどいん) 国土人天之善悪(こくどにんでんしぜんまく)」は、その法蔵菩薩が、私たちを救うための誓願(本願)を立てる準備として、他の仏さまがたの世界(浄土)を深く探求された様子を描いています 。ここから、阿弥陀さまの救いの計画がいかに周到に練られたか、その過程を学んでいきましょう。

2. 第五句・第六句の解説:「覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪」

まず、この二句の原文、書き下し文、そして現代語訳を確認しましょう。

  • 原文: 覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
  • 書き下し文: 諸仏(しょぶつ)の浄土(じょうど)の因(いん)、国土(こくど)人天(にんでん)の善悪(ぜんあく)を覩見(とけん)して、
  • 現代語訳例: (法蔵菩薩は、師である世自在王仏のもとで)もろもろの仏がたの浄土が成り立った原因や、その国土の様子、そこに住む人間や天人たちの善い点や悪い点(不十分な点)を、つぶさにご覧になって、

言葉の意味を味わう

この二句に含まれる大切な言葉の意味を、一つずつ見ていきましょう。

  • 「覩見(とけん)」とは?:深く見極める眼差し
    「覩見」は単に「見る」だけでなく、「覩」は目を凝らしてはっきりと見定めること、「見」は心で深く本質を見抜くことを意味します 。つまり、法蔵菩薩が他の仏さまの浄土を、表面だけでなく、その成り立ちの根本原因や本質に至るまで、注意深く詳細に、智慧をもって見極められたことを示しています。仏さまが私たちを慈しみの心でご覧になる、その温かい眼差しを表す言葉でもあります 。

  • 「諸仏(しょぶつ)の浄土(じょうど)の因(いん)」とは?:他の仏さまの世界とその成り立ち
    「諸仏」とは阿弥陀さま以外の数多くの仏さまがたのこと 。「浄土」とは仏さまがお住まいの清らかな世界(仏国土)です 。「因」とは、その浄土がどのような願いや修行(原因)によって成り立ったのか、その根本理由を指します 。法蔵菩薩は、結果としての浄土だけでなく、その「因」まで深く探求されたのです。

  • 「国土(こくど)人天(にんでん)の善悪(ぜんあく)」とは?:浄土の様子と住民のありさま
    「国土」はその浄土の具体的な環境や様子 。「人天」はその浄土に住む人々(人間や天人など)のことです 。 ここで重要なのが「善悪」です。これは道徳的な善悪ではなく、浄土としての「善」=優れた点、理想的な点と、「悪」=不十分な点、限界点を指します 。例えば、往生するための条件の厳しさ、往生できる人の範囲、往生後の状態(まだ修行が必要かなど)といった点です 。

なぜ「善悪」を見極められたのか?

法蔵菩薩が他の浄土の「善」だけでなく「悪」(限界・不十分さ)をも深く見極められたことには、極めて重要な意味があります 。それは、他の浄土の救済には限界があり、特に私たちのような煩悩を抱えた凡夫(ぼんぶ) が救いから漏れてしまう現実を深くご覧になったからです 。

この他の浄土の「悪」=救済の限界を認識されたことこそが、後に阿弥陀さまが「すべての衆生を、一人も漏らさず救う」という、他力本願(たりきほんがん) 、特に第十八願に示されるような、念仏一つで往生できるという無条件の救いを誓われる、強い動機となったのです 。

3. 法蔵菩薩の学びとその意義

師のもとでの徹底的な探求

『仏説無量寿経』によれば、法蔵菩薩は、師である世自在王仏のもとで、二百十億という数限りない諸仏の浄土の様子と、それらがどのような原因(願いや修行)によって成り立ったのか、また、そこに住む人々の様子(善し悪し)をつぶさにお示しになりました 。この「二百十億」という数は、法蔵菩薩の探求がいかに広範で徹底的であったかを示しています 。

凡夫救済という明確な目的

法蔵菩薩の探求の中心にあったのは、私たちのような、自らの力では煩悩を断ち切り、厳しい修行を完成させることが難しい凡夫を、一人残らず救いとる、という強い願いでした 。多くの浄土が高度な修行を往生の条件とし、すべての凡夫を救うには限界があることを見抜かれたからこそ 、阿弥陀さまは、私たちの側の能力や善行を一切問わず、ただ「南無阿弥陀仏」と称えるお念仏一つで、誰もが平等に往生できるという、第十八願に代表される「他力本願」の道を選び取られたのです。

四十八願への道筋

この「覩見」という徹底した学びと考察が、法蔵菩薩がご自身の浄土である「極楽浄土」の具体的な姿と、そこに私たち衆生を迎え入れるための具体的な方法、すなわち「四十八願(しじゅうはちがん)」を構想し、建立される上での、重要な準備段階となりました 。

智慧と慈悲の結晶

法蔵菩薩の「覩見」は、単なる情報収集ではなく、後に阿弥陀仏となられた際の広大無辺な「智慧」の基盤を形成する過程でした。この深い洞察力があったからこそ、あらゆる衆生にとって最も確実で容易な救済の道(念仏往生)を確立できたのです。阿弥陀さまの救い(慈悲)は、この「覩見」に象徴されるような、深く緻密な智慧によって裏打ちされているのです。

4. まとめ:私たちにとっての「覩見」の教え

阿弥陀さまの願いの深さ

『正信偈』の第五句・第六句「覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪」は、阿弥陀さまが私たち凡夫を救うために、いかに深く思いを巡らせ、周到な準備を重ねられたかを示しています。法蔵菩薩が、数限りない諸仏の浄土とその限界を「覩見」されたのは、他でもない、この私を含む、すべての衆生の苦悩を見抜き、「必ず救う」という大悲の心を発(おこ)されたからに他なりません 。

お念仏に込められたご苦労

私たちが日々お称えする「南無阿弥陀仏」のお念仏は、この法蔵菩薩の「覩見」に始まり、五劫思惟(ごこうしゆい)、兆載永劫(ちょうさいようごう)という計り知れないご修行を経て成就された、阿弥陀さまの慈悲と智慧が成就したお喚び声です 。お念仏を称えるとき、私たちは阿弥陀さまのこの広大なご恩の中に抱かれていると受けとめるのです。

凡夫であることの自覚と他力への帰依

法蔵菩薩が他の浄土の限界(悪)をご覧になったように、私たちもまた、阿弥陀さまの教えに触れることを通して、自分自身の限界、すなわち自力ではどうすることもできない凡夫であるという事実(悪)に気づかせていただくことが大切です。それこそが、「阿弥陀さまのお力(他力)にすべてをおまかせするしかない」という、浄土真宗の「信心」の確かな出発点となるのです。

この『正信偈』の句を通して、阿弥陀さまの救いの確かさと広大無辺な慈悲を改めて心に深く味わい、お念仏申す日々に励んでまいりましょう。