はじめに:本願成就と光明の輝き
これまでの句では、阿弥陀さまが仏になる前の法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)として、師である世自在王仏(せじざいおうぶつ)のもとで道を求め、他の多くの仏さまの国(浄土)を深く観察(覩見)された結果、私たち凡夫(ぼんぶ)を救うための、この上なく優れた(無上殊勝)、世にもまれな(希有)広大な誓い(大弘誓)を建立・超発されたことが示されました。
今回解説する第十一句から第十六句は、その誓願(本願)を成就して阿弥陀仏となられた仏さまから放たれる、広大無辺な光明(こうみょう)の徳とその働きを、十二種の光(十二光)として讃える部分です。この光明は、阿弥陀さまの限りない智慧と慈悲の象徴であり、私たちを救う具体的な働きそのものです。
II. 十二光の解説:第十一句~第十六句
A. 第十一句:普放無量無辺光 (ふほうむりょうむへんこう)
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書き下し文: 普く無量・無辺光を放ちて
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現代語訳例: (阿弥陀仏は)あまねく、量り知れない光と、際限のない光を放って…
この句は、阿弥陀仏の光明の基本的な性質、すなわちその無限性と普遍性を讃えます。
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無量光(むりょうこう):量り知れない光
阿弥陀さまの光明の力や功徳、そして時間的な広がり(過去・現在・未来)が、私たちの思いを超えて無限であり、量ることができないことを示します。私たちがどれほど深い罪や悪(罪業)を抱えていようとも、阿弥陀さまの救いの力はそれを超えるほど大きいのです。 -
無辺光(むへんこう):際限のない光
阿弥陀さまの光明が空間的に際限なく、大宇宙のどこまでも行き渡っていることを示します。十方世界(あらゆる世界)を照らし、救いからもれる場所はどこにもありません。この光は、善人や悪人、賢い者や愚かな者といった一切の差別なく、すべての衆生に平等に届くのです。
B. 第十二句:無碍無対光炎王 (むげむたいこうえんのう)
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書き下し文: 無碍・無対・光炎王
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現代語訳例: 妨げられることのない光、比べるもののない光、光の炎の王である光
この句では、阿弥陀さまの光明が持つ、障害をものともしない力、比較を超えた絶対性、そして最高の輝きが讃えられます。
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無碍光(むげこう):妨げられない光
阿弥陀さまの光明が、山河のような物理的な障害はもちろん、私たちの心の中にある煩悩や罪悪、無明といった闇によっても、決して妨げられることがないことを意味します。親鸞聖人はこの無碍光を特に重視されました。なぜなら、煩悩に満ちた凡夫であっても、その煩悩が救いの妨げとならないことを、この光が保証しているからです。 -
無対光(むたいこう):比べるもののない光
阿弥陀さまの光明が、他のいかなる仏さまや菩薩さまの光とも比較にならないほど絶対的に優れていることを示します。大宇宙に比べるものが存在しない、唯一の光なのです。 -
光炎王(こうえんのう)(炎王光 えんのうこう):光の炎の王
光の輝きが最も盛んであり、あたかも炎の中の王のように力強いことを示します。この光は、煩悩という薪を焼き尽くす力を持ち、地獄・餓鬼・畜生といった三悪道の深い苦しみの闇をも照らし、救い出す力があると讃えられています。
C. 第十三句:清浄歓喜智慧光 (しょうじょうかんぎちえこう)
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書き下し文: 清浄・歓喜・智慧光
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現代語訳例: 清らかな光、喜びを与える光、智慧の光
この句では、阿弥陀さまの光明が私たちの内面、特に根本的な煩悩にどのように働きかけるかが示されます。仏教では、私たちの苦しみの根源として、貪欲(むさぼり)、瞋恚(いかり)、愚痴(おろかさ)の三つの根本的な煩悩を挙げ、これらを「三毒」と呼びます。この句の三つの光は、それぞれ三毒に対応し、それらを照らし、浄める働きを持つとされます。
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清浄光(しょうじょうこう):貪欲を照らす
汚れのない清らかな光です。この光は、「貪欲」(むさぼりの心)を清める働きを持ちます。光に照らされることによって、自身の欲深さを自覚が生まれるのです。 -
歓喜光(かんぎこう):瞋恚を照らす
心に安らぎと喜びをもたらす光です。これは「瞋恚」(怒りや憎しみの心)を和らげる働きを持ちます。怒りの心の恐ろしさに気づかせ、それを深く懺悔させるとともに、そのような心を抱えたままでも救われるという安心感から、深い喜び(歓喜)が生じるとされます。 -
智慧光(ちえこう):愚痴を照らす
迷いを照らし、真実を知らせる智慧の光です。これは「愚痴」(真理に対する無知、無明)の闇を破る働きを持ちます。物事をありのままに見る眼を与え、それにもかかわらず愚かな自分を自覚します。
D. 第十四句:不断難思無称光 (ふだんなんじむしょうこう)
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書き下し文: 不断・難思・無称光
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現代語訳例: 絶えることのない光、思いはかることのできない光、言葉で言い尽くせない光
この句は、阿弥陀さまの光明の永続性、そして人間の理解や言語表現を超えた超越的な性質を讃えます。
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不断光(ふだんこう):絶え間ない光
阿弥陀さまの光明は、一時も途切れることなく、常に私たちを照らし続けていることを示します。私たちが阿弥陀さまのことを忘れている時でさえ、その慈悲の光は絶えず注がれています。 -
難思光(なんじこう):思いはかれない光
阿弥陀さまの光明は、私たちの思考や想像力をはるかに超えたものであることを意味します(思議し難い)。だからこそ、知性による理解だけでなく、阿弥陀さまの働きに身を任せる信心(他力)が大切になるのです。 -
無称光(むしょうこう):称え尽くせない光
阿弥陀さまの光明の徳はあまりにも深く広大であるため、言葉で言い表したり、讃え尽くすことができないことを示します。この光の働きによって、衆生は仏になることができる(因光成仏)とされます。
E. 第十五句:超日月光照塵刹 (ちょうにちがっこうしょうじんせつ)
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書き下し文: 超日月光を放ちて塵刹を照らす
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現代語訳例: 太陽や月の光をも超える光を放って、数限りない世界を照らしたもう。
この句は、十二光の掉尾を飾り、阿弥陀さまの光明がこの世のいかなる光よりも優れ、全宇宙を照らすことを高らかに宣言します。
- 超日月光(ちょうにちがっこう):日月を超える光
阿弥陀さまの光明は、私たちが知る最も明るい物理的な光である太陽や月の光よりも、はるかに優れていることを示します。太陽や月の光には限界がありますが、阿弥陀さまの光は常に輝き、どこまでも届きます。最も重要なのは、この光が物理的な光では照らせない私たちの心の闇、すなわち無明の闇を破ってくださる智慧の光であるということです。
- 照塵刹(しょうじんせつ):塵刹を照らす
「塵刹」とは、塵のように無数にある世界(仏国土)を意味します。阿弥陀さまの光明が限りなく広い範囲(無辺光)に及び、その救いが普遍的であることを重ねて示しています。
F. 第十六句:一切群生蒙光照 (いっさいぐんじょうむこうしょう)
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書き下し文: 一切の群生、光照を蒙る
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現代語訳例: 一切の生きとし生けるものは、その光の照育を受けている。
この句は、十二光の解説の結論であり、阿弥陀さまの光明の目的を明らかにします。
- 十二光の総括と摂取不捨
この句は、これまでに述べられた十二光の全ての徳と働きが、例外なく、今まさに、「一切の群生」(あらゆる生きとし生けるもの)の上に及んでいることを示します。 「光照を蒙る」とは、阿弥陀さまの光に照らされ、その慈悲によって摂め取られ、護られている状態、すなわち「摂取不捨」(せっしゅふしゃ:摂め取って決して捨てない)の真実を示しています。私たちが自身の煩悩のためにその光を感じられなくても、阿弥陀さまの側からの働きかけは絶えることなく(不断光)、妨げられることなく(無碍光)、常に私たちを照らし、護ってくださっているのです。これが、私たちの救いの確かな根拠となります。
III. まとめ:阿弥陀さまの光明に照らされて
『正信偈』の第十一句から第十六句は、阿弥陀仏が本願を成就された仏として放つ十二種の光明(十二光)の広大な徳とその絶え間ない働きを讃嘆する、重要な部分です。
これらの光は、阿弥陀仏の限りない慈悲と智慧が、時間や空間、衆生の状態といったあらゆる限定を超えて、全てに及ぶことを示しています。特に、清浄光・歓喜光・智慧光は、私たち凡夫が抱える根本的な三毒の煩悩に直接働きかけ、その姿を照らし出し、自己の真実の姿への気づきと、仏の慈悲への感謝へと導きます。
そして、最後の「一切群生蒙光照」の一句は、これら全ての光明の働きが、例外なく、今まさに、全ての衆生の上に及んでいることを結論づけています。これは、阿弥陀仏による「摂取不捨」の利益が、すでに私たちの上に実現していることの証しです。
私たちは、この十二光の教えを通して、阿弥陀仏の限りない慈悲と智慧に触れ、どのような罪や煩悩を抱えていようとも、決して見捨てられることなく、常にその光明の中に護られているという、浄土真宗の救いの核心を知らされるのです。