私たちの「頼り」とするもの
私たちは日々、本当は「あてにならないもの」を、どこか「あて」にして、一喜一憂しながら生きているのではないでしょうか。
自分の能力や、これまでの人生で積み重ねてきた経験。あるいは、一生懸命に貯めてきたお金であったり、大切な家族や友人から寄せられる愛情や友情、世間からどう見られるかという名誉や地位といったもの。私たちは、そういったものばかりを自分の生きる「支え」とし、それを失わないようにと心を砕きながら、日々の生活を送っているのではないでしょうか。
火宅無常の世界と唯一のまこと(歎異抄より)
しかし、人生における「生・老・病・死」といった、避けることのできない根本的な問題に直面した時、ひとたび無常(むじょう)の風が吹けば、私たちが日々大切に積み上げてきたそれらのものは、何一つとして本当の支えにはならず、全く役に立たないという厳しい事実に、私たちは気づかされます。
今まで、これが支えになる、これを頼りにしていれば大丈夫だ、と思っていたものは、いざという時、何一つとして本当の「あて」にはならなかったのです。
親鸞聖人のお言葉を記したとされる『歎異抄(たんにしょう)』の中に、この世の真実と、私たちのありようについて、次のように示された一節があります。
『歎異抄』には
「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)、 火宅無常(かたくむじょう)の世界は、よろづの事、 みなもって、そらごと・たはごと、 まことあることなきに、 ただ念仏(ねんぶつ)のみぞまことにておは(わ)します」
とあります。
(意訳:煩悩を身に満たした私たち凡夫にとって、この燃えさかる家のようにたちまちに移り変わっていく無常の世界(火宅無常の世界)のすべての物事は、みな、虚しく、たわいもないものであって、何一つ真実といえるものはない。その中にあって、ただ阿弥陀さまのお念仏だけが、唯一の真実なのである。)
私たちが生きるこの世界は、まるで火に包まれた家のように、すべてのものがたちまちのうちに変化し、崩れ去っていく、そういう無常の世界です。そして、その中に生きる私たち自身もまた、煩悩に満ちた凡夫であり、その私たちの思いや行いの中に、何一つとして確かな「真実」を見出すことはできない。そのような厳しい現実を、このお言葉は示しています。
その中にあって、唯一の、そして絶対の真実であるのは、阿弥陀さまから、今ここに、この私のところにまで、間違いなく届いているお念仏、「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」でありました。お念仏のみが、この私にとっての、まことの真実でありました。