浄土真宗の法話を聞いていたら、信心正因って言葉がよく出てきます。出てこなくても、その話を噛み砕いて先生方はお話されています。最初は少しむずかしいですが、途中から分かりやすいですので読んでみてください。
信心正因とは
浄土真宗の教えの要(かなめ)は信心正因と言えるでしょう。しかし、これは「阿弥陀仏を信じれば救われる」と言っているのではありません。確かに信心が正(まさ)しく往生浄土(私がお浄土にゆける)、成仏(ほとけになれる)という因でありますが、今この世界で仏になるのではありません。今はまだ仏になっていないから、この世で思い悩み、身を煩わせ、欲や怒り、愚痴の煩悩から逃れられません。
では、いつ救われたと言えるのか。それは死んで仏となるのであるから、死後救われる。。。というのではありません。浄土真宗は「死んだら仏」という教えではないのです。「死んでから仏」じゃ生きている人には意味のない教えです。それでは、いつ救われたと言えるのか。それが今回のテーマです。
8センチのドリルが光に見える
これは福岡県の紫藤常昭先生のお話を聞かせていただき、私ながらにお伝えします。
2010年8月5日、チリの鉱山で落盤事故があり33名の従業員が634メートル地下に閉じ込められるという事がありました。地下に閉じ込められた作業員たちの、鉱山内での様子は今でもまだ語られておりませんが、想像を絶する不安・恐怖だったかと思います。
鉱山が崩落してから、まず自分が生きていることで一安心ですが、すぐに不安が頭をよぎります。
「自分が生きて出られるだろうか。助けは来てくれるのか。」
食料・水・空気など様々なことがあります。それに、作業員は33名です。もしもの事を考えたら限りある食料を分け合っていくと考えたら、一人でも少ないほうが長く生き残れるのではないか。1日でも長く生きれば助けが来るのではないかと、1日の違いが生死を分けるかもしれません。
そのような不安の中で迎えた崩落から18日目でした。崩落してから地上では緊急の手立てがとられました。地上からドリルでずっと穴を掘っていました。それは直径8センチですが、その先端が作業員の前に表れたときには、まさに「これで救われた!」と思ったのでしょう。
ドリルを引き上げてみると、その先端には赤い文字で「我々33名は待避所で無事である」という旨をスペイン語で手書きされた紙が括りつけられているのを発見しました。坑内に閉じ込められた33名が地下700mの避難所で生存していることが確認され、さらにはこの中にはある従業員による妻宛に自分が元気であることを伝えるラブレターなども含まれていました。
被災状況は通風口が繋がっていたため生存していたが、食料・水などは二日分ほどしか残っておらず、1日おきに1人当たり小さじ2杯分の缶詰のマグロ・牛乳1口・ビスケット1枚を分配していたようです。みな8キロから10キロほど体重を落としていたというので、その過酷さが分かります。
ポイント
・状況は変わらないが、心鏡に大きな変化
食料など絶望的であったが8センチの道が繋がった時には、「なにも状況は変わっていないが」作業員たちは、これでもう「助かった」と思えたのではないでしょうか。まだ地上に出れた訳でもありません。食料が手に入ったわけでもありません。けれども、この鉱山の中から必ず出れると喜んだことでしょう、その時に救いがあると言えないでしょうか。
この世の中で考えてみると
この譬えは、作業員が地上という世界を知っていて、この鉱山が最悪な環境であると分かっていればこそ、やっとこの環境を抜け出せると喜べたのでありましょう。我々浄土を知るはずもない人間は「浄土」と聞いても喜びに満ち満ちるということはありません。やがてこの世を去り、思い悩み・身を煩わし、欲・怒り・不平不満の愚痴のない世の中に生まれ、自由自在の仏になれるということは、この鉱山から地上へと思いを馳せる人々の姿と喩えられるかと思います。
それでは、いつ救われたと言えるのか。この作業員の方々にとって、ドリルの先端が彼らの前に現れた時であります。まだ地上ではないけれど、かならず地上へ行けると確信できて、本当に「救われた・助かった」となったのは、地上へと運びとられたときでありましょう。
我と阿弥陀様の関係もそうであります。この私に南無阿弥陀仏とお念仏が届いた時に、やっと間違いないものが届いたときです。けっしてこの世の中で仏になることはできませんが、かならず仏になれる。つまり苦しみ・悲しみのない世界「お浄土」に生まれて行くんだと届いたときが念仏と出会ったときです。
鉱山ではドリルの先端が救いの姿に見えたように、私達には南無阿弥陀仏と私の心に信心となって届いているのです。
私が信じたから「救われる」わけではありません。
鉱山では、閉じ込められた側が祈った(信じた)から届いたのではありませんね。その私を目当てとして働いてくれた方がいたから、ドリルの先端は届いたことでした。
ここに届いた南無阿弥陀仏そのものが「信心」なのです。やがて命終えてゆく私たちは、けっして死んで終わりではないのです。この命終えた時、その私が阿弥陀様に抱かれて仏とならせて頂くのです。それは花が色とりどりに咲き、鳥が歌い飛び回る美しい世界に生まれていくのです。
いつ救われるのか。それは死んでからではありません。いま南無阿弥陀仏と届いた時、もうすでに救われていたのでありました。