いのちの終い方、むかえ方 -お浄土に生まれるということ-

ある僧侶の述懐

先日、長年ご住職を務めておられる、あるベテランの僧侶の方のお話を聞く機会がありました。その方は、浄土真宗本願寺派の僧侶としての資格を頂いてからまもなく五十年、お寺の住職としての任を預かってからも二十五年近くになり、古希(七十歳)の節目も近づいてこられた、と仰っていました。

そして、「最近、体の至る所や感覚の衰えが、自分に『老い』を伝えてきます。間違いなく、自分の人生も最終行程に入ってきたのだなと実感しています」と、静かに語っておられました。

さらに続けて、「振り返ってみれば、僧侶として今日まで、お預かりしているお寺のご門徒様や、自身の友人、知人のご葬儀に携わった数は、もう千人を超えました。思えば、人は誰かを見送り、そして誰かに見送られていく、そういう命であります。誰にでも必ず迎えることになる命の終わり(命終)、その最後の刹那(せつな)に何を思い、何を考えるかということは、自らの人生を見つめ直す上で、大変重要な時間であるように思います。それはまるで、壮大な交響曲でいえば、最後の第四楽章であり、人生のクライマックスにあたるとも言えるでしょう」と、しみじみと話されたのが印象的でした。

出会いと別れに学ぶ(涅槃経より)

お釈迦さまは、『涅槃経(ねはんぎょう)』というお経の中で、私たちにこのように説いておられます。

「愛おしい人の死は、もちろんこの上なく悲しいことである。しかし、その悲しい別れから、私たちが何も学ぶ事がなかったとしたら、それはもっと悲しいことなのだ」

また、別の箇所では、 「人は、様々な出会いによって育てられるものである。しかし、それと同じように、大切な人との別れによって、より深く人間として成長させられてゆくものである」 とも諭(さと)されました。

近年、テレビや新聞などで、多くの有名人や芸能人の方々の訃報(ふほう)が多く伝えられ、その度に私たちは驚きや寂しさを感じています。しかし、それはある意味では、私たちにとっては遠い世界の「ニュース」であります。けれども、自分の家族や、ごく親しい人の死は、決して単なるニュースではありません。この私自身の身の上に起こった、人生の一大事であります。

その、臨終からお通夜、ご葬儀といった一連の時間帯の中で、私たちがその死とどう向き合い、そこにおいて何を思い、そして、その後の人生をどう生きようと考えるかということは、先に往かれた方が、その身をもって私たちに残してくださったメッセージに、私たちがどう応えてゆくか、という大切な問いかけであるように思えます。

「死亡」ではなく「往生」

私たちは、何のために生きて来たのでしょうか。そして、何のために今、生きているのでしょうか。このような問いに対して、私たち仏教徒、特に浄土真宗の門徒としての答えは、ある意味で単純明快です。それは、「仏さまになるため」に生きて来たのであり、今も生きている、ということです。

ですから、浄土真宗では、いのちが終わることを、 単に死んで亡(な)くなるとして「死亡(しぼう)」 とは言わず、 阿弥陀さまのお浄土に往(ゆ)き生まれるとして「往生(おうじょう)」 と表現するのです。

この「往生」によって至る覚りの世界を、仏教では「涅槃(ねはん)」とも言います。これは古代インドのサンスクリット語「निर्वाण (nirvāṇa ニルヴァーナ)」を音で写した言葉です。この「ニルヴァーナ」という言葉を直訳すると、「吹き消すこと」「消滅」といった意味合いになります。そこから「完全な消滅」や「燃え尽きること」と解釈され、「完全燃焼」という表現が用いられることもあります。

ただし、仏教でいう「涅槃」とは、単なる消滅や燃え尽きることを指すのではありません。それは、私たちを燃え立たせ、苦しめる「煩悩(ぼんのう)の火」が完全に吹き消され、一切の苦しみから解放された、静かで安らかな「悟りの境地」を意味します。浄土真宗においては、この上ない涅槃の境地は、阿弥陀如来の他力本願(すべての人を必ず救うという誓いと、そのはたらき)によって、お浄土に往き生まれることで初めて恵まれるものだと説かれています。 ですから、「ニルヴァーナ」を「完全燃焼」と表現するのは一面的な解釈であり、仏教的な深い意味合いとしては、「煩悩の消滅による悟りの境地」と捉える方が、より適切と言えるでしょう。

このように味わうとき、私たちが迎える命日(めいにち)とは、単に肉体が死んだ日ではなく、仏としての永遠のいのちをいただく、いわば二度目の誕生日と言うこともできるかもしれません。

阿弥陀さまの誓いと、今の私

さて、お浄土に往き生まれて仏となり、涅槃という究極の安らぎを得る。それは、この上なく尊いことですが、では、今、この現実を生きている私たちはどうなのでしょうか。私たちは依然として、煩悩に振り回され、思い通りにならない現実に悩み苦しんでいます。

浄土真宗の教えの核心は、この「今」にあります。阿弥陀さまの「必ず救う」という誓い(本願)は、遠い未来の約束であるだけでなく、今、この瞬間の私に、すでにはたらき続けてくださっている、ということです。

煩悩を抱え、迷い悩み、時に自分のことしか考えられないような私。そのどうしようもない私の姿を、阿弥陀さまはすべてお見通しの上で、「そのようなあなただからこそ、私が目当てなのだ」「あなたの苦悩は、そのまま私の苦悩なのだ」と、大きな慈悲をもって、この私を丸ごと抱きしめてくださっています。

南無阿弥陀仏に生きる

その阿弥陀さまの、私を抱きしめて離さないというお心が、声となり、言葉となったものが「南無阿弥陀仏」のお名号(みょうごう)です。私たちが「南無阿弥陀仏」とお念仏申すとき、それは、私が何かを成し遂げるための手段ではありません。そうではなく、「阿弥陀さま、あなたの願い(お救い)を、この私の上に確かに受け取りました。ありがとうございます。すべておまかせいたします」という、阿弥陀さまの呼び声に対する、私の応答であり、感謝の表現なのです。

ですから、お念仏申す生活とは、何か特別な修行をするということではありません。日々の生活の中で、自分のいたらなさ、煩悩の深さに気づかされ、「お恥ずかしいなぁ」「申し訳ないなぁ」と感じる。その心と同時に、「そんなあなたを、この阿弥陀が決して見捨てないよ」と呼び続けてくださる阿弥陀さまのお心を聞き、その大いなる慈悲に感謝しながら生きていく。それが、お念仏に生きるということでしょう。

確かな依り処をもって

この人生は、思い通りにならないことばかりです。老いも病も、そして必ず訪れる死も、私たちの力ではどうすることもできません。しかし、どのような状況にあっても、決して揺らぐことのない、確かな依り処(よりどころ)が、私たちには与えられています。それが、阿弥陀さまの「必ず救う」という誓いであり、そのはたらきである「南無阿弥陀仏」です。

この確かな依り処があるからこそ、私たちは、人生の最終行程をも含めて、日々の出来事に一喜一憂しながらも、根底にある安心感をもって、力強く生きていくことができるのではないでしょうか。お浄土で待っていてくださる方々を思い、阿弥陀さまのお慈悲に抱かれて、今日一日を大切に歩ませていただきましょう。