新しいお寺のかたち

明るいお寺 専明寺(下松市)

おむすび と お念仏 -私のためのお慈悲-

「おにぎり」と「おむすび」の違い(ある方のお話)

お米を研ぎ、炊き立てのご飯でつくる、おにぎりやおむすび。日本人にとっては、とても身近で、素朴でありながら、どこか心がこもっていると感じられる食べ物の一つです。

以前、ある方から、この「おにぎり」と「おむすび」の違いについて、興味深いお話を聞いたことがあります。その方は私に、「おにぎりとおむすびの違いがわかりますか?」と尋ねられました。私は、「呼び方が違うだけで、同じものでしょう?」と思っていましたが、その方は、次のように教えてくださったのです。

「『握る』ことは片手でも出来ますが、『結ぶ』ことは片手では出来ませんよね。お母さんが子どものために結んでくれた『おむすび』は、不思議と、子どもにとって大きすぎず小さすぎず、硬すぎず柔らかすぎず、そして塩加減もちょうど良い。それは、お母さんが、食べる子どものことを細やかに思いながら、愛情を込めて作ってくれているからでしょう。そのお母さんの心と子どもの心が、お米を通して、いのちとして、しっかりと結ばれていく。それが『おむすび』なのだと思いますよ。」と。

お弁当の時間のわくわく

その話を聞いて、私も自分の幼い頃を思い出しました。遠足や運動会の時、一番の楽しみはお弁当の時間でした。お弁当箱の蓋を開ける瞬間は、いつもドキドキしたものです。今日のおかずは何が入っているのだろうか、今日のおむすびは海苔がまいてあるのかな、それとも、わかめが混ぜ込んであるのかな、そして、おむすびの中身は、梅干しかな、鮭かな、昆布かな…などと、子ども心にわくわくしながら、お弁当の蓋をあけたものでした。そこには、母の愛情が詰まっていたのでしょう。

私のために仕上げられた「お念仏」

さて、「南無阿弥陀仏」とお称えするお念仏は、もちろん食べ物の「おむすび」ではありません。しかし、このお念仏もまた、ちょうど、母親が我が子のことを思って、その子にぴったりの「おむすび」を結んでくれるように、この、悩み苦しみの真っ只中にある「凡夫」である私に、ぴったりと焦点を合わせて、阿弥陀如来さまという仏さまが、長い時間をかけて、仕上げてくださったものなのです。

この私を、迷いの中から救い出さずにはおかない、という阿弥陀如来さまのご苦労は、並大抵のことではありませんでした。それは、私たちの想像をはるかに超えた、如来さまの汗と涙の結晶であり、その塩味が、今、この私のところにまで届いている、と言えるのかもしれません。

そして、その「おむすび」ならぬ「お念仏」の、いわば「中身」は何でしょうか。それは、「必ずあなたを救う」という、真実(まこと)の親さまである阿弥陀さまの、私たちに向けられた切なる願いであり、絶えることのないはたらきであり、そして、私たちを常に呼び続けてくださる「お喚(よ)び声」そのものなのであります。

如来さまと私の確かな絆

「南無阿弥陀仏」のお念仏によって、真実の親である阿弥陀如来さまと、子であるこの私との、決して切れることのない確かな絆が、すでに結ばれているのです。子どもの私たちは、ただただ、その親さまである阿弥陀さまの広大なお慈悲の心を、そのまま、ありがたくいただくばかりであります。

日々のおみのりを慶ぶ

私たちは日々、様々な恵みの中に生かされています。大自然の恵み、食べ物の恵み、人との出会いの恵み。それらに感謝しつつ、同時に、この私に常に向けられている、阿弥陀さまの大慈悲のおみのり(御法り=教え、恵み)を、深く、深く、喜ばせていただく日暮らしとさせていただきましょう。