かたちなき仏さまの「方便」

理解するということ(ある先生の言葉)

これは、ある先生がよく生徒に語っておられた言葉です。 「君たちね、自分が何かを理解したと思っても、それを自分の言葉で他人に分かりやすく伝えることが出来て、はじめて本当に、完全に理解したということなんだよ。自分で理解したつもりでいても、それを他人にきちんと伝えることが出来ないのならば、それはまだ、完全に理解したとはいえないのだ。」

物事を本当に理解し、それが完成するということは、それが相手に伝わる、分かる形で表現される、ということでもあるのでしょう。

いろも かたちも おわさぬ みほとけ

さて、阿弥陀仏という仏さまは、その覚(さと)りの本質においては、「いろもなし、かたちもなし」の仏さまである、と伝統的に言われています。それは、阿弥陀さまのおさとりが、私たちの持つような、あらゆる限定的なとらわれ(色や形へのこだわりなど)から、完全に自由であることを意味しています。

ですから、私たちが普段、お寺やお仏壇でお参りする際に、ご本尊(ごほんぞん)としてお示しされている阿弥陀さまのお姿(絵像や木像)は、実は、真実そのものではなく、真実を私たちに伝えるための方便(ほうべん)のお姿である、と言われています。

「方便」という はたらき

「方便」といえば、すぐに「ウソも方便」ということわざが思い浮かびますが、仏教でいう「方便」は、それとは少し意味が違います。「ウソ『は』方便」ではなく、「ウソ『も』(時には)方便(となることがある)」という言い方ですね。ですから、「方便」とは、単純に「にせもの」とか「まがいもの」という意味の言葉ではありません。仏教でいう「方便」とは、「真実なるものが、私たちに分かるように、その姿を巧(たく)みにあらわす、その手だて」のことを言うのです。

完成されたお誓いの あらわれ

もしかしたら、お寺のご本尊が「方便のお姿」だと聞かれて、驚かれる方、あるいは少しがっかりされる方もおられるかもしれません。しかし、考えてみてください。阿弥陀さまが、この私たちをかならず救う、と立てられたお誓い(ご本願)が、本当に完成されたものであるならば、その救いの目当てである、この私たちのところにまで、必ず、私たちに分かるような「巧みな手だて(方便)」となって、あらわれずにはおれないのではないでしょうか。

先ほどの恩師の話のように、物事が本当に完成したということは、その完成したことが、目的の相手にも分かるように伝わっている、という状態でもあるのです。目に見えるお姿としてご本尊が私たちにお示しされているということは、まさに、私たちをかならず救うという阿弥陀さまのお誓いが、今すでに完成して、この私にまで届いている、ということの確かな証(あかし)なのです。

そして、阿弥陀さまの「方便」は、ご本尊のお姿だけではありません。私たちが、称えたいと思えば、いつでも、どこでも、「南無阿弥陀仏」という、私たちの声となってあらわれるお念仏のお姿としても、そのお誓いは完成され、私たちに届いているのです。

お念仏は「往生の定まりたる証拠」

お念仏のことを、蓮如上人(れんにょしょうにん)は、その『御文章(ごぶんしょう)』の中で、次のようにお示しくださっています。

「これすなわちわれらが往生(おうじょう)のさだまりたる証拠(しょうこ)なり」

(意訳:この、私たちが称えるお念仏(南無阿弥陀仏)そのものが、私たちの浄土往生がすでに定まっていることの、確かな証拠なのである。)

私たちが口から称えさせていただくお念仏は、その称えた回数を積み上げて、その功徳によって助かってゆく、というものではありません。お念仏の一声、一声が、そのまま、すでに私たちにはたらきつづけている阿弥陀さまの、巧みなお姿、方便のお姿なのです。

私に届く 阿弥陀さまのお姿

あらゆるいのちをかならず救う、という阿弥陀さまのお誓いが、すでに完成し、この私の上に、私たちに分かる「かたち」としてあらわれたお姿。それが、日々お称えする「南無阿弥陀仏」のお念仏であり、そして、お仏壇やお寺に安置されている、あの御本尊(ごほんぞん)のお姿なのです。