新しいお寺のかたち

専明寺(下松市)浄土真宗

ここを去ること遠からず

観経』に、「阿弥陀仏、ここを去ること遠からず」とあります。
お釈迦様が韋提希夫人に説法されるのですが、現代語訳するならば
「阿弥陀仏のいらっしゃるお浄土は、ここ(私の所・娑婆世界)から遠くにあるのではありません」
とお示しくださっています。
小経』には、「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。」とあります。
阿弥陀経は、無問自説の経と言われるように、お弟子さんに問われることなく、お釈迦様がつらつらと
お話を始められた内容の一つです。
西の方向に十万億土というと、計算された方の話によると33億光年の距離だと言われます。
まったく近くない。めちゃめちゃ遠いんですね。
でも矛盾してないのです。
一見、お浄土は「遠くない」と言われ「十万億土(33億光年)の彼方」と言われると
矛盾しているようですが、これらは主語が違うだけで本質は同じことを示しています。
阿弥陀仏からすると、私までの距離は一瞬です。それも光明無量・無碍光といわれる
ほどですから、すでにここに届いている親様です。
しかし、私の側からするとどうでしょうか。その親の場所まで頑張って行けといわれても
とてつもなく距離のある難行道です。私の足腰で進んで行ける距離ではありません。
十万億土といわれますが、数字が表す意味は、この私にとって自らの力でたどり着ける世界ではない。
まさに自力無功を示してあるのです。
私にとっては果てしない距離だけれども、
親である阿弥陀様からすれば、遠くない。すでに親はここに来ている働いている親様でした。
一見矛盾しているようで読み間違ってしまうかもしれませんが、しっかりと筋が通っているのです。
テレビを見ていますと、稀に赤ちゃんの「はいはいレース」のようなものを見ます。
赤ちゃんがハイハイをする期間ととても短いので、定期的に行われている催しかと思います。
そのレースを見ていると、スタート地点に並んだ赤ちゃんが、親の声を聞いて
「真っ直ぐ進むもの」・「脇道にそれるもの」・「気付かずとどまるもの」・「泣き出すもの」
それは一人ひとり様々です。
赤ちゃんからすると、親の場所まで向かうというのは長い長い距離でしょう。
けれども、親からすればどうでしょうか。レースさえ終われば、赤ちゃんのもとにすぐに
駆け寄って「抱きしめて」あげるんじゃないでしょうか。親からすれば、全く遠くはないのです。
阿弥陀如来さまは、彼方向こうで「頑張れ!頑張れ」と念佛称えよ・修行せよ!と待っている仏さまではありません。
この私こそを救いの目当てとして、ここまで駆け寄ってきてくださる仏さまです。
赤ちゃんのレースは、進むこともできず・ただただ泣くばかりの姿こそが私の人生・命の姿です。
この命の行く末もわからぬまま、日々必死に生きているだけで、行く先などわかっていません。
迷いを迷いとも気づいていない私です。その私こそ救う、見つけて決して見捨てはしない阿弥陀という仏さま、
親様でした。
私にとって、お浄土は遥か彼方の世界ではありますが、
阿弥陀さまから言えば、遠くはない。今ここに届いている仏さまでありました。
第8代ご門主様の蓮如上人と、みなさんご存知の一休さんとのやり取りにこんなものがあります。
「極楽は十万億土と説くならば足腰立たぬ婆は行けまじ」(足腰も立たないようなお年寄りにはとても
行けないのではないか)と詠んだのに対し、蓮如上人は、「極楽は十万億土と説くなれど近道すれば
南無のひと声」(極楽は遠いと言われているけれども南無阿弥陀仏と念仏一つ称えれば行ける近道
があるのだ)と返されています。
南無阿弥陀仏と念佛称える、今、すでに、ここに、私がお浄土参りが決定しているのでした。