なぜ、人を殺してはいけないの?

子どもたちの問い

あるニュースの中で、子どもたちが「なぜ、人を殺してはいけないの?」と、周りの大人たちに問いかける場面がある、という話を聞きました。そして、問われた大人たちは、そのあまりにも根源的で、しかし答えるのが難しい問いに対して、言葉に窮してしまうことが多いといったものでした。

言葉だけでは届かないもの

この問いに対して、新聞や雑誌などでは、多くの識者と呼ばれる方々が、様々な角度から理路整然とした答えを寄せておられました。書かれている内容には、まったくその通りだと頷かされるものばかりです。しかし、その一方で、はたして、それらの論理的な言葉や理屈だけで、この問いの本当の答えを、問いを発した彼ら(子どもたち)に、十分に伝えきることができるのだろうか、という疑問は、私の心から拭いきれませんでした。

そもそも、人の命を奪うということは、疑問を持つまでもなく、決してしてはならない悪いことです。そのことについて、本来、難しい理屈や言葉は必要ないはずです。でも、彼らは、頭で理解し、心で納得できるような、そういう理屈や言葉を求めているのです。いったいそれは、何故なのでしょうか。

自分のいのち、他のいのち(お釈迦さまの教え)

お釈迦さまは、かつてある国の国王夫妻に対して、いのちの尊さについて、このようにお説き示しになられました。

「あなた達は、他の何よりも、自分自身の命こそが、この世で一番大切なものだと思っているでしょう。それと全く同じように、他のすべての人々もまた、自分自身の命こそが一番大事なものだ、と思っているのですよ。だからこそ、自分自身の命を大切にするのと同じように、すべての命を大切にしなければならないのです。」

このお言葉は、まず私たち一人ひとりが、自分自身の「いのち」がどれほどかけがえのない、大切なものであるかに気づき、そして、他の人もまた、あなたと全く同じように、自分の命が最も大切だと思っているのだという事実に、深く思いをはせることが肝心なのだ、とおっしゃりたいのだと思います。

語るよりも大切なこと

私は、この子ども達からの根源的な問いに、もし自分なりに答えるとするならば、それは論理的な言葉で説明することよりも、まず、この私自身が、自分の命をどれほど大切なものとして受け止め、生きているか、その姿を示すことではないかと思っています。また、それを自分自身の姿で示すことが難しいと感じる時には、ご自身の命を本当に大切にしてこられた、信頼できる人生の先輩方の生き様を、彼らに伝えてあげることではないか、とも思うのです。

「ひとえに親鸞一人がためなりけり」(歎異抄より)

『歎異抄(たんにしょう)』という書物の中に、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の、次のようなお言葉が残されています。

「弥陀(みだ)五劫思惟(ごこうしゆい)の願(がん)をよくよく案(あん)ずれば、 ひとえに親鸞(しんらん)一人(いちにん)がためなりけり」

(意訳:阿弥陀さまが、想像もつかないほど長い時間(五劫)をかけて考え抜かれ、建ててくださった「すべてのものを必ず救う」というご本願(ごほんがん)は、よくよくその心を案じてみれば、他の誰のためでもない、まさしくこの親鸞ただ一人のためであったのだなぁ。)

親鸞聖人は、この私の命は、阿弥陀さまという仏さまから、「どうか、その命を大事にしてくれよ、その命を十分に生かし切っておくれよ」と、常に願われている、そういう大切な、かけがえのない命なのだ、と深くお喜びになられながら、九十年のご生涯を、お念仏と共に過ごされた方です。

いのちが輝きを伝える

不思議なことに、このように自分自身の命を、仏さまから願われた尊い命として、本当に大切にされている方のそのお姿は、そのまま、周りにいるこの私に、「ああ、自分の命も、同じように大切にしなければならないのだな」「そして、他の人の命もまた、同じように大切な命なのだな」ということを、理屈ではなく、心で気づかせてくれる、尊い機縁(きえん)となっているように感じます。

言葉で教え諭す以上に、その人の生き方そのものが、いのちの輝きを静かに伝えてくれるのです。