新しいお寺のかたち

専明寺(下松市)浄土真宗

まことの言葉

そんかとくか 人間のものさし
うそかまことか 仏さまのものさし
(相田みつお)
私たちが行動をするときに、多くは自分にとって損か得かを考えて、
役立つ・意味がある・利益があることは進んで行動しますが、
そうでない場合、なかなか行動を伴いません。
それは人間のものさしだからこそ、自分の価値範疇に収まることでしか
行動・考えることができないのです。
一方、ほとけさまのものさしは、「うそかまこと」です。
ほとけさまからご覧になった私の行動は「うそだらけ」なのであります。
自分にとって、どれだけ世のため・人の為と行動しながらも、
どこか自分の利益になることを優先し
どこか褒められたい・認められたいと願い、
そして、役立つことで自分の存在意味を求めてしまう。
これらは人間の自然な行動でありますが、究極的な「まことの行為」とはいえません。
そうです。究極的に「まことの行為」が出来ない私だからこそ、
仏さまは、「うそかまこと」のものさしを用いて、この私の姿を示してくださるのです。
絶対の正義を、人間が持ち合わせる限り、人間の中に悪が生まれ争いが起こります。
それは人間の頭で考えられる範疇の世界しか見れていないからです。
一方、人間の範疇を超えた、ほとけさまの視点から見てみますと、
私たちすべてが悪の立場になってしまいます。なかなか認めたくないものですが。
けれども、それでいいんだと思います。
私が「一番だ」・「正義だ」と思った瞬間、私の世界はそれまでです。小さいもので終わってしまいます。
けれども、ほとけさまのものさしに出逢えばこそ、私の世界の小ささをお示しくださり、
さらなる視野で世界に望むことが出来ます。
日々私たちの生活は、選択のくり返しです。損か得か、良いか悪いか、役立つかどうか、
面白いか・そうでないか。様々な事柄を天秤にかけながら、その断続的な繰り返しの中で
私の1日・1周間・1年間が過ぎていきます。まさに人生とは、そのくり返しです。
自分の殻に閉じこもり、この人生の視野さえも自ら閉ざして生きていくのか。そして
ただ死んでしまうのか。
または、仏さまの視野に触れ、自らの視野を開き、人生を過ごし、
そして、命終えた時の行き先を得て往生していくのか。
この「うそだらけの私」を、まことの心で必ず救うといつも共にいてくださるのが
南無阿弥陀仏の仏さまです。常にはたらき続けておられるのです。