浄土真宗の教えは、他力本願・往生浄土・悪人正機この3つを柱とする教えです。
この他力本願について、今日は少しお話をします。
「他力本願」を辞書で調べてみますと、
①自分の力でなく、他人の力によって望みをかなえようとすること。
②「本願」は仏が修行しているときに立てた誓い。本来は阿弥陀如来の本願によって極楽往生を得ること。
このように、「他人の力」と「阿弥陀如来の力」とは大きな違いです。
言わずもがな、浄土真宗の他力本願とは②の意味です。
浄土真宗の「他力」という言葉のイメージが先行して、浄土真宗は楽な教えだ。
何もしない宗教である。と、本来の姿とはかけ離れたイメージで語られることが多いようです。
正信偈の中に「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」(しんぎょうじゅじじんになん なんちゅうしなむかし)
【書き下し】
信楽を受持することは甚だもって難し 難の中の難これに過ぎたるは無し
【現代語訳】
阿弥陀如来より賜る信心を頂くことは、とても難しいことである。難しいことの中でも難しいことであり、これ以上難しいことはない
と、親鸞聖人はおっしゃられています。
世間では、「他力とは簡単な教えだ。楽でいいなぁ」と言われますが、親鸞聖人のご意見とは全く反対です。
これはどういったことでしょうか。
これについて、2つ考えられることがあります。
まず1つが、自力を捨てて他力に帰すことが難しいことです。少しでも自分の行いを取り上げて良し悪しを引き合にして
自らの行いを往生浄土への糧として、阿弥陀如来の他力を信じれないということです。
他人と比較して、「自分のほうが善人だ。きっといい世界に生まれるに違いない」と思うことは当然です。
けれども、阿弥陀如来の救いには、善人も悪人も老若男女・貴賎を問いません。同じお浄土です。
これが、一つ目の理由です。
2つ目の理由として、難しいという言葉の意味合いです。
「難しい」という言葉を使用しますが、含まれる意味は大きく違います。
・東京大学に合格することは、難しい
・難しい東京大学に、よく合格できたね
このように使い分けてみました。前者の意味合いは「無理だ」という不可能を表しているのに対して、
後者は「素晴らしい」有り難い、もったいないことである、と尊高を表した言葉といえる。
そのよう難の中の難という言葉を知った上で、親鸞聖人はどのように、弥陀の法をいただかれたのでしょうか。
比叡山でのご修行を辞めて、法然聖人に出会い、そして「南無阿弥陀仏」お念仏に出会いました。
20年の自力の成果を投げ捨てて、他力に帰した。阿弥陀如来の胸に命を生涯を、すべてを任せていかれたのです。
それは、自力という修行から、任せるだけいいという「他力」に帰るのは、難しいことだったでしょう。
また、自分のはからい(自力)が問われない、「この私を救ってくださる、けっして見捨てられない親様の
御慈悲に気づいた時に、これ以上有り難いものはなかったぞ」と頂かれたのでしょう。
他力は易行(簡単な行)であると、世間では言われるが、この私が救われなければ、
又大切な人も救われなければ私の救いになりません。
命終えるその時まで、私は阿弥陀如来さまに命をお任せ出来る人生を送るだけであります。
他力という易行