いのちを見るまなざし(松本梶丸先生の本より)
いのちを見つめるということについて、以前読んだ本の中に、深く考えさせられる一節がありました。仏教学者の松本梶丸(まつもとかじまる)先生のご著書『生命の見える時―一期一会』(中日新聞本社)の中に、三歳の女の子が道端でつぶやいた、次のような言葉が紹介されていました。
「毛虫さん、信号は赤ですよ。あぶないですよ。」
この言葉に対して、松本先生は次のように述べておられます。 「この女の子には、毛虫に対していささかの差別も嫌悪感もない。生命(いのち)そのものを見ている。」
大人が聞けば、「毛虫に信号の色がわかるはずがないじゃないか」と、つい分別し、笑ってしまうかもしれません。しかし、そのように見てしまえば、もはや毛虫という「いのち」に対する共感の心は生まれてきません。残念ながら、私たち大人のまなざしは、いつの間にか、この幼い女の子のような純粋さを失い、あらゆるものを自分の知識や都合で分別してしまう心に曇されているのではないでしょうか。
私たちの「分別心」
お釈迦さまは、そのような私たちの心のあり方を「分別心(ふんべつしん)」といわれました。物事を自分にとって都合が良いか悪いか、好きか嫌いか、役に立つか立たないか、などで常に区別し、判断してしまう心のことです。そして、その心は絶えず、自分自身を中心とする考え(自己中心)から起こってくるのだ、と教えてくださいます。
雑草と山野草
例えば、暑い時季になると私はよく自宅の庭の草刈りをするのですが、その中で私にとって目の敵、天敵ともいえる存在が一つあります。それがドクダミです。抜いても抜いても、地面の下に根が張っているので、刈り取っても数日経てばすぐにまた新しい芽を出してきます。私にとっては、庭の景観を損ねる、ただの厄介な雑草でしかありません。
しかし、このドクダミが、都会などでは「山野草」として、わざわざ鉢植えにされて、大切に育てられたり、店によっては販売されたりして重宝されているというのです。同じ植物なのに、面白いものだと思いますね。ある場所、ある人にとっては邪魔な雑草扱いされるものが、所が変わり、見る人が変われば、貴重品として扱われるのですから。
そのように、私たちは常に、「これは役に立つのか、役に立たないのか」「これは美しいのか、醜いのか」というような、自分の価値観や都合で世の中を見ようとしています。そして、その心は留まることを知らず、いつしか他の生き物、さらには同じ人間、人のいのちに対してまで、「あの人は役に立つのか、役に立たないのか」というような冷たいまなざしを向けかねない。それが、この私の「分別心」に囚われたまなざしなのではないかと、時に恐ろしくなることがあります。
阿弥陀さまの「お慈悲」
一方、阿弥陀さまという仏さまのまなざしには、そのような「分別」は一切ありません。いのちに「役に立つ」も「役に立たない」も、「好き」も「嫌い」も、「良い」も「悪い」もありません。ただ、そこにある、かけがえのない「いのち」そのものを見つめ、その一つ一つを、絶えず「中心」としてご覧になられる。それが阿弥陀さまのおこころであり、その温かいまなざしを「お慈悲(じひ)」といいます。
そのお慈悲の心がいっぱいになって、この「分別」ばかりしている私、自己中心的な私に、「そのままで大丈夫だよ」「あなたの苦しみ、ちゃんと分かっているよ」「必ず仏にして見せるから、私にまかせなさい」と、いつも呼び続けてくださるお声が、「南無阿弥陀仏」のお念仏です。
その分け隔てのないお慈悲の中で、私たちは「お育て」をいただきながら、日々の暮らしを歩んでいくのであります。