変わらないものが与える安心

あなたの「安心」は何ですか?

皆さんは、普段の生活の中で、何に「安心(あんしん)」を求めているでしょうか。 以前、友人との会話の中で、ふとこんな質問を投げかけた時がありました。すると、その友人は少し考えてから、こう答えてくれました。

「うーん、やっぱり『安定した生活』かな。それに一番安心を感じるよ。」

さて、皆さんはどうでしょうか。「安定した生活」と一言で言っても、それは具体的に何をもって言えるのでしょうか。十分な金銭的な余裕があることでしょうか。病気知らずの健康的な体でしょうか。あるいは、社会的な名声や高い地位でしょうか。確かに、これらが手元にあれば、この人生は一時的に「安心」なのかもしれません。

しかし、私たちがよく知っているように、たとえそれらを一度手にしたとしても、それらは永遠に続くものではなく、いつか必ず、一瞬でその手から離れていってしまう可能性のあるものでもあります。そして、心のどこかでその事も理解しているからこそ、私たちは、いつかそれを失うのではないかという「不安」の中で生活をしなければならない。だとすれば、それらは本当の意味での「安心」とは言えないのではないでしょうか。

浄土真宗という教えは、そのような移ろいゆく、頼りにならないものを拠り所とするのではなく、「南無阿弥陀仏」のお念仏、すなわち阿弥陀さまという仏さまのおはたらきこそが、この人生の本当の拠り所であり、確かな支えであったと明らかになる教えです。

故郷の空が見せてくれたもの(ある方のお話)

以前、ある方のお話で、このようなことを聞きました。 その方は以前、福岡でサラリーマンとして働いておられたそうです。朝早くに会社に向かい、夜遅くに家に帰ってくるという毎日。そんな仕事ばかりの日々に、心も体もすっかり疲弊しきっていた、と。

ある時、久しぶりのまとまった休みを取り、地元である熊本県の西原村に帰省されたそうです。実家の近くを気分転換に散歩していた時のこと。どこからか漂ってくる梅の花の良い香りに誘われて、ふと空を見上げると、そこには満開に咲き誇った紅梅(こうばい)の美しい赤と、どこまでも広く青く澄み渡った空が目に飛び込んできたといいます。

その瞬間、その方はハッとさせられたそうです。仕事に追われる日々の中で、空を見上げる余裕など、全くなかったことに気づかされた、と。考えてみると、子どもの時は、きっと、もっと頻繁に空を見上げていたはずなのに、歳を重ねるにつれて、目の前にある様々な物事をこなすことに追われるうちに、いつしか空を見ることさえしなくなってしまっていた。

見上げた故郷の空は、昔、子どもの頃に見た空と何も変わらない、ただただ広く、青く澄み渡った世界でした。移り変わっていく自分の状況や心境とは対照的に、あの頃と少しも変わらない空がそこにある。そのことに気づいたとき、その方は、何とも言えない、深い安心感に包まれた、と仰っていました。

変わらないものへの信頼

紅梅の花が、やがて他の様々な花へと咲きうつろいゆく様に、私たちが生きているこの世界も、そして私たち自身の心も、常に移り変わりゆくものです。時には、心が追いつかないような、大きな変化に翻弄されることもあります。

だからこそ、「変わりゆく私、変わりゆく世界に生きているからこそ、決して変わらないものが、私たちに本当の安心を与えてくれる」のではないでしょうか。あのお話の方が、故郷の変わらない空に深い安心を感じられたように。

阿弥陀さまの変わらぬお慈悲

そして、浄土真宗の教えは、その決して変わることのない、確かな安心の拠り所が、阿弥陀さまという仏さまのお慈悲(おじひ)なのだと教えてくださいます。阿弥陀さまは、常に私たちにこう呼びかけてくださっています。

「どんなあなたであっても、どのような生き方をしていようとも、そのままで大丈夫。私が決してあなたを見捨てはしない。だから、ただこの私にまかせ、南無阿弥陀仏の道を、安心して生き抜いておいで。」

忙(せわ)しなく動き、変わり続け、喜び、怒り、哀しみ、楽しむことを繰り返す、このどうしようもない私たち。そのすべてを、決して変わることなく、いつでも、どこでも、大きな慈悲の心で優しく包み込んでくださる仏さまがいらっしゃいます。その仏さまを、私たちは阿弥陀仏と聞かせていただくのです。

確かな支えと共に生きる

決して変わることのない阿弥陀さまの願い、そのお慈悲を、人生の確かな支えとして、この移ろいやすい、一度きりの「いのち」を、力強く生き抜いて往く。それがお念仏の道でありましょう。