新しいお寺のかたち

専明寺(下松市)浄土真宗

安心

浄土真宗の教えを勉強していると、漢字の読み方が日常とは異なるものがあります。
安心という言葉は、その代表的な1つです。
一般的には、「安心」と書いて「あんしん」と読みますが、仏教では「あんじん」と読みます。
意味は、「気にかかることがなく心が落ち着いていること」、そのさまという事です。
辞書を見てみますと、仏教の事についても書かれていました。
仏法の功徳によって、迷いがなくなった安らぎの境地
阿弥陀仏の救いを信じて、浄土往生を願う心
このように、漢字は同じでも意味が違いますし、言葉を聞いただけで漢字を想像することは
難しいですが、心に関係し、安らぎ・落ち着くなど共通する点があることが分かります。
今回は、一般的に使われる「安心」というテーマでお話をします。
安心という心は、自分の力で作ることが出来るでしょうか?
昔むかし、ピアノを習っていました。すぐに辞めてしまったのですが、これでも発表会にも
出て、みんなの前で演奏したものです。練習してきた成果をみんなの前で披露する
一回限りのチャンスです。やはり会場を見渡すと、同い年くらいの人が上手に演奏する姿や
会場の雰囲気に飲まれそうになります。自分の順場が近づくにつれて、胸の鼓動は早くなり
自分でも緊張している事がよく分かります。そんな時に、自分で「落ち着け・落ち着け」とか
「大丈夫、自分ならきっと上手くできる」と思ってみたとしても、周りを見ると一気に自分の
日頃練習してこなかったことが悔やまれます。どれだけ自分が「安心するんだ」と思ってみた
ところで、心から「安心」するということはありません。
似たような緊張した場面は、何度と経験された方は多いのではないでしょうか。
そんな時、親に「いつも通りやりなさい、会場から見守ってるからね」という言葉を聞くと、
これまで「安心」することが出来なかったのが不思議なくらい、安心できた(ような)思い出があります(笑)
なに1つ、自分の中で解決出来なかった問題を、その一言ですっと楽になりました。
状況は何一つ改善されていません。雰囲気も、練習不足も改善された訳ではありませんが、
「応援してくれている」、「見守ってくれている」事が、私の安心へと繋がりました。
安心という心は、自ら言い聞かせて手に入れるものではなく、自分より大きな存在が
見守ってくれている・認めてくれている事により、「安心する」「安堵する」ことができるのです。
人生の安心は、だれが見守ってくれているでしょうか?
それは親でも、友達でも、お金でもありません。
それは、阿弥陀如来という仏様ただ一人であります。
命終える時に、為す術は1つもありません。ただ仏さまにお任せするしかないのです。
命終える時に、自分で「大丈夫」と言い聞かせた所で、死後にどんな世界が待っているのか
分からない自分には納得する事もできませんし、日頃の行いについても褒められたものではないでしょう。
その私を抱きとって救うと誓われた仏さまが、阿弥陀如来さまでありました。
南無阿弥陀仏という声の仏さまとなり、「南無阿弥陀仏」と私の声となり、確かに届けられた
仏さまだったのです。私の声であるけれども、仏さまのはたらきが確かに届いた姿です。
この命終えていくことは、不安です。何が待っているのか、自分がどうなってしまうのか。
けれども、自分の力で考えた所で「安心」は得られません。
南無阿弥陀仏のお念仏にお任せする他に、方法・手立てがあれば別ですが、
実践・修行等、その道のりは遠く険しいもので、今生で到達できるかも分かりません。
多くの方々がお念仏を拠り所として、命を生き切っていかれました。
親鸞聖人は「お念仏1つ」と、この私に道を示してくれたのでありました。
「不安」を払拭することができなかった私を、「安心」させたのは、大きな存在である
阿弥陀如来さまでありました。状況は何一つとして変わっていません。
それはピアノの発表会の時と同じです。
状況も自分の力量も変わらないけれども、この私を救ってくれる仏さまに出遇えたことが
私の安心へと繋がっていき、この私が命を全うする力となるのです。