新しいお寺のかたち

専明寺(下松市)浄土真宗

家康の言葉

徳川家康の言葉に
「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし」
というものがあります。若い時には味わうことがないであろう、おそらく晩年の言葉かと思います。
高校や大学を卒業する時には思いもしないでしょう。これからの人生の行く(終末)を思いながら、
日々生活している人は少ないかと思います。けれども、だんだん年を取り、若く・健康であっても、
やがて老い・病気にもなります。身近な人も家族・仕事・地位・名誉をも手放さなければいけません。
この人生が薔薇色・希望に満ちた光輝く道であったかと思えば、
いつの間にか「老病死」への道へと自然となっていくことでしょう。
人の一生というものは、朝露のように儚く消えてしまう一瞬の命であります。
その道を歩む中で、この事実に気づいた時に、なにを支えとして生きていくのでしょうか。
如来の作願をたづぬれば  苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて  大悲心をば成就せり
(正像末和讃38・註釈版P606)
阿弥陀如来さまは、この私こそを見捨てないために、あらゆる善根功徳は、あれも私のため、これも私のためと、
一切衆生を救うために修め積まれたのであります。どのような人生を歩もうとも、やがて越えられない壁に当たってしまう
私を見透かして、ご準備された「南無阿弥陀仏」という六字のお念仏でありました。
「頑張ってこの壁を超えなさい、あなたに出来ない試練は私は与えない」というような、主客分かれた(主人と客人のように
距離があり、命令されるような)教えではありません。
この私を救うために、私のところまで降りてきてくださるのが阿弥陀如来さまです。
壁が越えられないのならば、この私を抱きとり、一緒に連れて越えていく仏さまなのです。
私も人生を歩む中で、遠き道のりを背負って歩んでいかなければならないでしょう。
けれども、この道はただの「老病死」で終わる暗い道のりではありません。
どのような道になろうとも、けっして見捨てない阿弥陀如来さまに照らされた道であり、
この道の行く末は、「お浄土」先達の方々が待っていてくださる世界なのです。