新しいお寺のかたち

専明寺(下松市)浄土真宗

尊ばれる命

現代日本の問題として、物事が役に立つかどうか、価値が有るかどうかで測ってしまう
傾向にあるようです。
テレビ番組でも、家にあるお宝を鑑定してもらって、専門家が品物の金額を提示するというものです。
曽祖父が大切にしていた物で、「何が合っても売ってくれるな」、「火事の時はコレだけは持って逃げてくれ」と、
このように大切にしてきたものだから、家族はきっと高価なものなのだろうと思って鑑定するのです。
大切にしていたものが、いったいどれくらいの価値なのか知りたい事は当然であります。
専門家が提示した金額は、世間体の価値として知ることは良いのですが、
それが本物だろうが、そうでなかろうが、大切にしてきた気持ちをも金額程度に扱ってしなうことは
大変残念に思います。
その人が生前に大切にしてきた気持ちも含めて、その品物には唯一無二の価値があると思うのです。
品物に付けられた値札によって、良いもの悪いもの、役に立つもの立たないものと区別している事が、
現代日本の抱える問題と思います。今日、人間の命をもそのように捉えていやしないでしょうか??
気づかぬ内に、そのような目(価値観)で人を見ていないでしょうか。
人間の能力には限りがあります。完全な愛情や尊敬の心を持つことができませんが、
阿弥陀如来さまから喚びかけ(はたらき)は、完全なものであります。
第18願に
わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、
わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。
と、お誓いになっています。仏になる時に、「衆生(私)が救われない(仏になれない)ようならば、
仏とはならない」と誓われました。
私を抱きかかえ修行を経て、仏となったのです。
仏となったら、救ってくれる存在ではありません。
私を目当てとして、仏となってくださったのです。
世間の価値がなくなろうとも、私にはたらきかけてくださるのが阿弥陀如来さまです。
人が私を見捨てても、決して見捨てないのが阿弥陀如来さまでありました。
私を救うと、気づく前からはたらきかけてくださっているのでありました。