新しいお寺のかたち

専明寺(下松市)浄土真宗

師のお育て

親鸞聖人は、90年の生涯をお念仏とともに生きられました。
御伝鈔の最後には、
口に世事をまじへず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。
声に余言をあらはさず、もつぱら称名たゆることなし。しかうしておなじき
第八日 [午時] 頭北面西右脇に臥したまひて、つひに念仏の息たえをはりぬ。
(もういよいよ体調が悪くなって、口からは世間の事は言葉にされず、ただ阿弥陀様の事
ばかりで、お念仏の声が絶えることがありませんでした。そのような日が続いた28日、
頭は北に、身体は西向きに寝ておられるとき、ついに念仏の息が絶え果てた)
最後の最後までお念仏を喜ばれた方でした。
ある方は、
「親鸞聖人のことを南無阿弥陀仏という鏡の前に90年座り続けられたお方です。」
と、例えられました。それは自分の中には、一切の真実はなく、阿弥陀様こそが
まことの姿であり、自分を映し、我が身のありようを明らかにされ、
そのまことを拠り処として生きられた方というのです。
自分の中には、「一切の真実がない」「まことと言えるものはない」と書きましたが、
どうでしょうか?みなさま、簡単に納得できることでしょうか?
今、現に私は存在をしていて、呼吸し心臓も動いている。これが真実だ!!!と思うかたも
おられるでしょう。
でも、それはいつから始まったことでしょうか?
生まれたとき?? それとも母親の身体の中からでしょうか?
そもそも、その私はどこから来たのでしょうか??
そんなの色々考えると分かりませんよね。色々と分からないことを、分からないままに
今わたしは生きているんだ。と言っている訳です。
では、私とは何でしょうか???
専明寺で生まれ育ち、名前は藤本弘信で、髪は短髪で、御門徒さんと関わる中で・・・
色々なことが言えますよね。でも、それも移ろい変わる中で、私という存在は
変わっていきます。もちろん32歳となり外見も変わってきました。
今呼吸してる私も、やがて変わり果てて、息が絶えるときがある。
心臓もそうです。やがて止まる。
私という存在は、確かに今存在しているけれども、変わっていくし、
私を証明しうる物事さえも(身体・仕事・人間関係・環境)さえも何一つとして
留まることをしらず、移ろい変わるものなのです。
私の中に真実(変わらぬもの)はあるでしょうか?
親鸞聖人は、阿弥陀様の前に座り続けた方です。
その親鸞聖人は、「私の中には真実などあるはずがない」とお示しくださいました。
これが、今を生きる私たちと大きな違いです。
私たちは、自らに真実(変わらないもの)があると思いがちです。
でも、そんなものないのです。昔も今も、これからも。世の中は変わるし、自分も変わっていくものなのです。
歎異抄の中で親鸞聖人のお言葉をこのように記されています。
火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことある
ことなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします
(この諸行無常の世の中は、すべてのものは移ろい代わり、まこと(変わらぬもの)など
一切ない。ただ念仏だけが真実(変わることがないもの)である。
このようにあります。
つまり、この世の中は移ろい変わるものである。
それは時代が変わっても、今も昔もこれからも諸行無常です。(それに気づかない私)
「移ろい変わるんだ」と教えてくれる唯一の存在が、阿弥陀様である。
だから、すべてのモノが移ろい変わる中でも、「ただ一つ変わらないもの」は
変わりゆくことを教えてくれるもの=阿弥陀様だということです。
親鸞聖人が、90年の生涯を通して、たくさんのことを教えてくださいました。
その第一歩が、このことではないでしょうか。