「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と正信偈が始まりますが、この2句はどちらも
同じ意味であることをご存知でしょうか?
「帰命」とは、帰依する・お任せするという意味でありますが、
「南無」も同じ意味なのです。なぜ表記表記が違うのかと申しますと、
帰命とは意味を表し、南無とは音を表すのです。
ナマス(インドの昔の言葉)が漢字に翻訳された時に、2パターンに翻訳
されたのです。意味で言えば「帰命する・お任せする」ですが、発音が漢字ととても近かった
「南無」と置き換えられたのでした。
無量寿如来と不可思議光(如来)という事も同じです。どちらも阿弥陀様を表していたのです。
この不可思議光とは、とても阿弥陀様のことを上手に表している表現であります。
不可思議とは、我々には思議することが到底できない仏さまなのです。
時間的・空間的に無限におはたらきくださる、無量光・無辺光の仏さまは
私たちの範疇に収まる仏さまではありません。
私の頭で考えられるならば、それは私の範疇・理解程度の仏さまと言えましょう。
親鸞聖人は、まずもってお正信偈の最初にこの二句を述べられました。
この二句なくして後の118句は始まりません。その最初に阿弥陀如来さまへの
お気持ちを「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と表され、重ねて重ねて
阿弥陀如来さまにお任せします。との信仰を表されたのであります。
「信仰」とは信じ・仰ぐということです。ここに親鸞聖人のお人柄が出ているのではないでしょうか。
この不可思議と言われる仏さまに、限界はありません。広大無辺の阿弥陀様なのです。
辺(ほとり)が無いということは、無限ということです。淵がないのですから、中心は分かりません。
しかし、裏を返せばこの広大無辺の無限の中であるからこそ、その中心は私であると言えます。
この私が、どこに行こうとも・何をしようとも、その救いの中からこぼれ落ちることがないお救いでした。
南無阿弥陀仏と称える中で、私を抱き救ってくださる阿弥陀様が共に歩んでくださっているのでありました。
無量無辺というなれど、その救いは私に向けられたものでありました。
広大無辺の阿弥陀様