新しいお寺のかたち

明るいお寺 専明寺(下松市)

挨拶と念仏

お寺の門前の挨拶(あるご住職のお話)

以前、あるお寺のご住職から、こんな日常の中での気づきのお話を聞かせていただきました。

そのご住職は、今年の4月から、毎朝の境内掃除の時間を、これまでより30分早く始められるようになったそうです。すると、ちょうどその時間帯に、お寺の境内の横の道を通って、近所の小学生たちが毎日通学していることに気が付かれました。昨年までは、もう少し遅い時間に掃除をしていたために出会うことがなかった小学生たちと、今では毎朝、挨拶を交わすようになった、と。

しかし、最初はなかなか挨拶が返ってこなかったそうです。確かに、「知らない人から話しかけられたら、ついて行ってはいけませんよ!」と厳しく教えられている今の時代ですから、子どもたちがすぐに挨拶を返さないのも、仕方のないことかもしれません。

それでも、そのご住職は諦めずに、毎日毎日、子どもたちの顔を見ては「おはよう!」「いってらっしゃい!」と挨拶を続けておられたそうです。すると、最近では、多くの子が挨拶を返してくれるようになり、時には、小学生の方から先に「おはようございます!」と挨拶をしてくれることもある。それが、とても嬉しいのだと、顔をほころばせておられました。

そんなある日のこと。いつものように、ご住職が子どもたちに大きな声で挨拶をしたら、一人の一年生くらいの女の子が、返事をしてくれなかったそうです。少し離れていたので、ご住職の姿が見えなかったのかもしれません。その時です。一緒に歩いていた上級生らしい子が、その女の子に、こう声をかけてくれたというのです。

上級生が、「(住職さんの)声が聞こえたやろ、ちゃんと挨拶しいや」と言ってくれました。

届いているのに 聞こえない声

その上級生の言葉を聞いた時、そのご住職は、はっと思われたそうです。「ああ、これは、そのまま私の姿ではないか」と。

阿弥陀さまもまた、この私に対して、「必ず救うぞ」「私にまかせなさい」と、ずっとずっと、よびつづけてくださっている。それなのに、この私は、その仏さまのよび声に、長い間、いっこうに返事をしなかった。それどころか、自分の都合や煩悩(ぼんのう)に心を奪われて、仏さまのよび声を無視し続けてきたのではなかったか、と。

しかし、そうやって呼び続けてくださる阿弥陀さまのお心が、様々なご縁を通して、ようやくこの私に届き、そのよび声に気づかせていただいた時、「ああ、そうであったか。申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございます」と、ちゃんと返事をしなくてはならない。その返事が、「ナンマンダブツ(南無阿弥陀仏)」なのだ、と。

「ナンマンダブツ」と応える

そのご住職は、「浄土真宗のみ教えというものは、何か特別な場所や、特別な時にだけあるのではなく、こういった何気ない日々の生活の中にこそ、深く、そして豊かに生きづいているのだなぁと、子どもたちの姿から、改めて味わさせて頂きました」と語っておられました。

拝み合うこころ

最後に、このような言葉があります。

「人が人を拝めば 人もまた人を拝む
私がみ佛を拝むのは 私を拝んでいて下る
佛心(ぶっしん)に気付いたからです」

阿弥陀さまが、まずこの私を、かけがえのない存在として、大切に拝んでいてくださる。その仏様のお心に気づかせていただくからこそ、私もまた、仏さまを拝み、そして周りの人々をも、同じように大切な存在として拝んでいくことができるのでしょう。