(意訳)阿弥陀如来の光明はいつも衆生を摂め取ってお護りくださる
(書き下し)摂取の心光、つねに照護したもう。(すでによく無明の闇を破すといえども)
「心光常護の益」という言葉が、親鸞聖人の著書『教行信証』には出てきます。現生十種の益の中(10ある中の六番目)の一つです。
信心の人を阿弥陀様は常に照らし護ってくださいます。阿弥陀様の摂取不捨の光明に摂め取られて常に護られるという信心の利益が明かされます。ここに何があっても大丈夫という大きな安心の世界が開かれます。
信心の利益には、常に照らされ護られているから何があっても大丈夫という事を法話にしたいと思います。
これは武田正文さんから聞いたお話を自分なりに解釈してお伝えしたいと思います。先生は浄土真宗のお坊さんですが、スクールカウンセラーという一面をお持ちです。
子どもを育てるのに大切なのは、「安全基地である」と教えてくださりました。
青色の部分は子どもです。そしてその周りを囲んで居るピンクが親とか子どもに一番近い存在です。
私達が生まれたときには、何も出来ません。だから子どもはこのピンクに護られて成長していくわけです。ご飯を食べることもできない、おむつを変えることもできない、自由に動くことだって出来ません。当然ですが、最初はみな人の手を借りなければ生きることができません。護られて成長していくうちに、やがて立ち上がれるようになり、歩けるようになり、そして家中駆け回るようになるのですが、まだまだ子どもはピンクの大人によって護られながら生活しています。
そして、幼稚園に入るとどうなるでしょうか。いままでピンクに護られて生活していましたが、今度は親の手が届かない場所で生活しなければなりません。それが黄色の部分です。けれども、ずっと親の手を離れている訳ではありません。夕方には帰ってくるので、家での生活はまたピンクの部分、つまり親に護られながら生活をします。子どもは成長する中で、この中を出たり入ったりすることで、社会との関わりを深めて良いこと悪い事、共同生活を知るわけです。このピンクの部分を先生は「安全基地」と言われました。これは心理学の中では有名な話のようですが、初めて聞いた私はなるほどなぁと思いました。
もしこのピンクの部分が欠けてしまっていたらどうでしょうか??つまり親の育児放棄や、かまってもらえない子どもの場合、いくら外の世界で(荒波にもまれて)思い通りにならずに悲しい思いをした時に、護ってもらえる場所がなかったら、傷ついた心を癒やしてくれる場所がなかったら辛いですよね。
子どもは、安全基地(家庭)から保育園・幼稚園(社会)に出たり入ったりする中で、成長していきます。時に傷つき、けれどもいろんな挑戦をする中で、子供の世界を広くしていくわけです。けれども、傷ついた時に、心休まる安全基地が不十分だったらどうなるでしょうか。
社会と関わらなくなる、挑戦をしなくなる、傷つかないようにと何もしない子になる。など、想像したらいろんなことが挙げられるのではないでしょうか。どんなことがあっても、何があっても大丈夫。だから色んな事に挑戦できる。それは、安全基地がしっかりとしていればこそではないでしょうか。
小学校・中学校と進学して子どもは大きくなります。やはり家庭で育つわけですから、基本的に同じ原理です。やっぱり傷ついたり、その癒やしを求められるのは、家庭しかないのです。だんだんと子どもは大きくなり、ピンクの部分に護られていたのが、自立してくると大人になるということなのでしょう。
けれども、まったく安全基地がなくなるわけではありません。もちろん食事や生活はまったく別になって家庭を持ったとしても、心の休まる場所、心許せる場所というのがやはり親や待っていてくれる人の元ではないでしょうか。
大人になると甘えられる場所がどんどん減っていきます。弱い所を見せられない、失敗を責められるだけで慰めてくれる人がいない、話をただただずっと聞いてくれる人は減ってしまします。安らぎの場所って、どんな強い人にも必要な場所なのです。
では、この生命の終わりに護ってくれるのは何でしょうか。これが阿弥陀様です。心光常護の益です。どんな生活であろうとも、どんな心持ちであろうと、それを責めて罰する仏様ではありません。この世の中、どうにもならないことばかりで、最後には人の手を借りても生きていかなければなりません。それでも、大丈夫だよと必ず護ってくれているのが阿弥陀様です。この生命の問題には、友達も親も連れ合いも変わってくれません。けれども、みんな一人じゃないってことを知っていてもらえたらと思います。
ここから難しくなります。
『観経』には「一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」とお示しです。すべての世界を照らし尽くす中に、念仏の人を必ず摂めとって捨てないという力強い働きが明かされています。親鸞聖人は「摂取」について、『一念多念証文』の中で「摂はおさめたまう、取はむかえとると申すなり。おさめとりたまうとき、すなわち時、日もへだてず、正定聚の位につき定まるを<往生を得>とはのたまえるなり」とお記しくださっています。時もへだてず、日もへだてず、いつでもお浄土に参る準備は出来ている、だから「正定聚」まさしく浄土に入る仲間(聚)と定まっているとお喜びになられました。
護られるとは、どういうことでしょうか。
これも親鸞聖人はすでにお示しくださっています。『一念多念証文』には
「まもるというは、異学・異見のともがらにやぶられず、別解・別行のものにさえられず」
つまり他の教えや他の意見にしたがう人たちによって信心を破られることがなく、自力の心で念仏する人たちによって信心をさまたげられることがないことを明かしてくださいました。
そもそもの苦しみの根源とはなにか。それは「無明の闇」と正信偈の中にあります。これはお釈迦様の「十二縁儀」によります。
①我々は根源的な無知である存在です。これを「無明」といいます。
②無知をもとに行為を支配する潜在的形成力があります。これを「行」といいます。
③その行には認識作用があります。これを「識」といいます。
④識には肉体と精神があります。これを「名色」(みょうしき)といいます。
⑤それらには「六処」(眼耳鼻舌身意)の六感があり、これを「六処」といいます。
⑥感覚と対象との接触があり、これを「触」といいます。
⑦感受作用があり、これを「受」といいます。
⑧感受作用があるということは、渇愛(喉が渇き自然と水を求めるように愛を求める行為)があります。これを「愛」といいます。
⑨その愛に執着がおこります。自分の欲を満たそうとすることです。これを「取」といいます。
⑩それらの行為の因果関係によって、執着し欲に振り回されて私達は輪廻していきます。これが世界です。これを「有」といいます。
⑪生まれ変わり死に変り、生まれてきたのがその原因の最初、はじまりになります。これを「生」といいます。
⑫そして生まれてきたら命終えて行かなければなりません。これを「老死」といいます。
この12子がお釈迦様の説かれた十二縁儀というものです。無明から始まり、無明ゆえに行(無明を形成)となり、行(無明を形成したものが)識(認識されるものとなり)・・・・・と続きます。つまり、その始まりは無明、真理を知らないことが、苦しみの始まりであると音木くださったのです。親鸞聖人は「無明の闇」とお示しです。煩悩と置き換えても良いでしょう。
その無明の闇を破るにはどうしたらいいのか。座禅をする?清らかな心で生活するよに心がける??はたして苦しみ悩みはなくなるでしょうか。お釈迦様とのやりとりで、『スッタニパータ』にはアジタという学生がお釈迦様にこのようにお尋ねになっています。
アジタ「その煩悩の流れは、何によって塞がれるのか?」
お釈迦様「それは智慧である」
「智慧の光明はかりなし」と和讃にも登場しますが、それは我が力で克服しなさいとはおっしゃられませんでした。智慧によって無明が破られる。闇は光によって晴れるのであるということです。
『浄土和讃』には
無明の闇を破するゆえ 智慧光仏となづけたり
一切諸仏・三乗衆 ともに嘆誉したまえり
と歌われています。
摂取心光常照護 已能雖破無明闇