ロバと時計台のお話
以前、このようなユーモラスな、しかし示唆に富んだお話を聞いたことがあります。イタリアかどこかの、昔から伝わるジョークだそうです。
ある旅人が、田舎道を歩いていると、道端で休憩している一人の農夫とその連れのロバに出会いました。旅人は自分の時計が止まってしまっていたので、農夫に時間を尋ねました。「すみませんが、今、何時ごろか分かりますか?」と。
すると農夫は、「へい、ちょっとお待ちください」と言って、隣にいたロバのお尻のあたりに回り込み、そのロバのキンタマ(睾丸)を、ぐいっと持ち上げました。そして空を見上げて、「へえ、ちょうど〇時〇分ですな」と答えました。
旅人は「(なんだこのおやじは? 適当なことを言っているに違いない)」と思いましたが、一応礼を言ってその場を去りました。しかし、しばらく歩いて村に着き、村の時計を見ると、なんと農夫が言った時間とぴったり合っていたのです。
「まさか、ロバのキンタマを持ち上げると時間が分かるなどということがあるだろうか? いや、何か特別な訓練をされているのか、あるいはその日の体温か何かで時間が分かる特殊なロバなのかもしれない…」旅人は不思議でたまりません。
翌日、旅人はまた同じ道を通りました。すると昨日と同じように、農夫とロバが休憩しています。旅人は、今度はちゃんと動いている自分の時計を隠し持って、再び農夫に尋ねました。「すみません、今、何時でしょうか?」
農夫はまた、「へい、お待ちください」と言って、ロバのキンタマをぐいっと持ち上げ、「ちょうど〇時〇分ですぜ」と答えました。旅人が自分の時計を見ると、やはり時間は正確でした。
「これはどう考えてもおかしい。何か秘密があるはずだ」そう思った旅人は、三度目に農夫に会った時、正直に尋ねてみました。「本当に失礼な質問で申し訳ないのですが、あなたはどうして、そのロバのキンタマを持ち上げると、そんなに正確な時間が分かるのですか?」
すると農夫は、けろりとした顔で、またロバのキンタマをひょいと持ち上げながら、こう答えました。
「ああ、これですか? なんてことはないですよ。こいつのキンタマを持ち上げんと、ちょうど邪魔になって、向こうに見える教会の鐘楼(しょうろう)についている時計の文字盤が、よく見えんのですよ。」
それを聞いて、旅人は自分が様々な難しい理屈や可能性を考えていたことが、いかに的外れだったかを知り、ただ呆然とするばかりでした。答えは、もっと単純な、すぐ目の前の現実の中にあったのです。
私たちが頼りにしてきたもの
このお話は、どこか私たちの人生にも当てはまるのではないでしょうか。 私たちは、これまでの人生で、「これさえあれば幸せになれる」「これがあれば安心だ」と、様々なものを頼りにして生きてきました。健康や、愛する家族や、信頼できる友人。あるいは、人から認められる地位や名誉、より豊かな暮らしのための財産。身も心もすり減らすようにして、それらを追い求めてきた、という方もいらっしゃるかもしれません。
もちろん、これらは人生を彩る、幸せの材料(きっかけ)であるかもしれません。しかし、私たちが人生の終わり、命終えようとする時、残念ながら、これらのものが何一つとして、私の本当の心の支えとなってはくれない、という厳粛な事実に、私たちは向き合わなければなりません。
私が自分の知識や経験で、「これがあるから幸せだ」「これがあれば安心だ」と必死で追い求めていたものの一つ一つは、命終わるその時には、何の支えにもなってはくれないのです。この世で得たものは、すべてこの世に置いていかなければなりません。
ありのままを抱きとる願い
この身一つで抱えきることの出来ないような大きな苦しみや悲しみを抱え、どうすることもできず、一人涙していかなければならなかったような、この私。そんな私に対して、阿弥陀さまは、「もっと努力して、その涙を自分で止めてごらん」とは、決して仰いませんでした。そうではなく、阿弥陀さまは、ありのままの、涙にくれる私の姿を、そのままご覧になり、大きな慈悲のお心で、そっと抱きしめてくださるのです。そして、こう呼びかけてくださいます。
「私が、あなたを必ず仏として浄土に生まれさせる。だから、どうか、この私に任せておくれ。あなたはもう、決して一人ではないのだよ」
いつもご一緒の「南無阿弥陀仏」
苦しみの涙を自分の力で止めるすべも、人生の本当の依り処となる手がかりも、何一つ持ち合わせていない、この私。そんな私のために、阿弥陀さまの方で、お救いに関するすべてのことを、すでに整えてくださり、そして今、この私たちのいのちに、「南無阿弥陀仏」という仏さまのお姿となって、いつでも、どこでも、ご一緒くださっているのです。