浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が遺された『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』。その中でも、特に大切にされている一首が、今回ご紹介する和讃です。
如来(にょらい)の作願(さがん)をたづぬれば
苦悩(くのう)の有情(うじょう)をすてずして
回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて
大悲心(だいひしん)をば成就(じょうじゅ)せり(『正像末和讃』より)
この和讃は、阿弥陀如来さま(以下、阿弥陀さま)の深い慈悲のお心と、私たち凡夫(ぼんぶ)がどのように救われていくのかという、浄土真宗の教えの核心を示しています。検索で「如来の作願をたずぬれば 意味」などとお探しの方にも、この和讃の心、そして浄土真宗の教えのエッセンスが伝わるよう、一句一句、やさしく解説していきます。
和讃の現代語訳
まず、和讃全体の意味を現代の言葉で見てみましょう 。
現代語訳: 阿弥陀さまが、私たちを救うという願い(本願)を起こされたその理由を尋ねてみると、それは、様々な苦しみ悩みを抱えて生きる私たち(苦悩の有情)を決して見捨てないためでした。そして、阿弥陀さまが大変な修行によって得られたすべての功徳(善きはたらき)を私たちに差し向けること(回向)を最も大切な目的として、「南無阿弥陀仏」というお名号(みょうごう)のうちに、その広大なる慈悲の心(大悲心)を完成(成就)されたのです。
この和讃は、親鸞聖人が晩年にまとめられた『正像末和讃』の中でも、非常に重要な位置づけにあります 。聖人が生涯をかけて出遇われた阿弥陀さまの救いの確かさへの深い感動が込められています。
一句ごとの意味を味わう
それでは、和讃を構成する四つの句の意味を、もう少し詳しく見ていきましょう。
1. 「如来の作願(にょらいのさくがん)をたづぬれば」
- 意味: 阿弥陀さまが願い(本願)を起こされた、その理由を尋ねてみると…
- 解説: 「如来」とは仏さま、ここでは阿弥陀さまのことです。「作願」とは、願い、特に私たちを救うという根本の願い(本願)を建てられたことを指します 。阿弥陀さまは、まだ法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)という修行者であられた時に、私たち生きとし生けるものすべてを救うために、四十八の広大な誓願(本願)を建てられました 。この句は、「なぜ阿弥陀さまはそのような誓いを立てられたのだろう?」と、その根本的な動機を探る問いかけから始まります。浄土真宗では、特に第十八願「どんな人も、私の名を称える者を必ず救う」という願いが、阿弥陀さまの本心を示す最も大切な誓いとされています。
2. 「苦悩(くのう)の有情(うじょう)をすてずして」
- 意味: 苦しみ悩む私たち(有情)を見捨てないで…
- 解説: 「有情」とは、心を持つ生きとし生けるもの、特に私たち人間のことです 。私たちは、生まれながらにして持つ根本的な苦しみ(生老病死など)や、尽きることのない煩悩(欲、怒り、愚痴など)によって、常に悩み苦しんでいる存在です 。仏教では、人生は思い通りにならない「苦」であると説かれます 。病気や老い、死、愛する人との別れ、嫌な人との出会い、求めるものが得られない苦しみ、そして自分自身の存在そのものから生じる苦悩など、様々な苦しみが絶えません 。特に人間関係の悩みも大きな要素です 。 阿弥陀さまは、このような自らの力では苦悩から逃れることのできない、ありのままの私たちの姿(苦悩の有情)をご覧になり、「決して見捨てない」と固く誓ってくださいました 。阿弥陀さまの救いは、私たちが立派な善人になるのを待つのではなく、この苦悩に満ちた「私」にこそ、まっすぐに向けられているのです 。
3. 「回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて」
- 意味: (阿弥陀さまが修行で得た功徳を私たちに)差し向けること(回向)を、最も大切なこととして…
- 解説: 「回向」とは、「回(まわ)し向(む)ける」という意味です 。浄土真宗でいう回向は、私たちが何か善い行いをしてその功徳を誰かにあげる(自力回向)ことではありません。そうではなく、阿弥陀さまが、私たち凡夫には到底できないような永い間の厳しい修行によって完成された、すべての素晴らしい功徳(ご利益や善きはたらき)を、私たち衆生に一方的に、無条件でプレゼントしてくださるはたらき(他力回向)を指します 。 この阿弥陀さまからの功徳のすべては、「南無阿弥陀仏」という六文字のお名号に完全に込められ、私たちに届けられています 。私たちがこのお名号を信じ、口に称えるとき、阿弥陀さまからの偉大な贈り物をそのまま受け取らせていただくことになるのです。この回向には、私たちが浄土へ往くための力(往相回向)と、浄土に生まれた後に他の人々を救うためにこの世に還ってくる力(還相回向)の二つの側面があると教えられています 。この和讃では、阿弥陀さまの救済計画において、この「回向」こそが中心的な方法であることが示されています 。
4. 「大悲心(だいひしん)をば成就(じょうじゅ)せり」
- 意味: (阿弥陀さまは)広大なる慈悲の心(大悲心)を完成されたのです。
- 解説: 「大悲心」とは、阿弥陀さまが私たち衆生に対してお持ちくださっている、どこまでも広く、限りなく深い、慈悲のお心のことです 。これは単なる同情ではなく、他者の苦しみを自分の苦しみとして感じ(悲)、他者に安らぎを与えたいと願う(慈)、力強く温かいはたらきです 。 「大」という字が示すように、その慈悲は、相手が誰であろうと(縁のある人か、ない人か)、善人であろうと悪人であろうと、一切の区別なく、すべての生きとし生けるものに平等に向けられています 。あらゆる存在の苦悩を我がこととして引き受けてくださるお心なのです 。『仏説観無量寿経』には「仏心とは大慈悲これなり」と説かれ、仏さまの本質そのものが大慈悲であると示されています 。 この和讃の結び「大悲心をば成就せり」は、阿弥陀さまが、この広大なお慈悲の心を、私たちを具体的に救うはたらき(名号・回向)として完成させ、いつでもどこでも私たちに届けてくださる状態にしてくださった、と示しているのです 。
和讃全体が伝えるメッセージ:阿弥陀さまの救いの確かさ
この四つの句は、それぞれ独立しているのではなく、深く結びついて、阿弥陀さまによる救いのプロセスを明らかにしています。
- (問い) 阿弥陀さまはなぜ本願を建てられたのか? (如来の作願をたづぬれば)
- (答え・対象) それは、悩み苦しむ私たち凡夫を、決して見捨てることができなかったから。(苦悩の有情をすてずして)
- (方法) その私たちを救うために、阿弥陀さまはご自身の功徳をすべて私たちに与える「回向」という方法を完成された。(回向を首としたまひて)
- (完成・心) その回向というはたらきの中に、阿弥陀さまの広大無辺な慈悲の心(大悲心)が完全に成就し、私たちに届けられている。(大悲心をば成就せり)
つまり、この和讃は、**「苦悩に沈むこの『私』こそが、阿弥陀さまの救いの目当てであり、その私を救うために、阿弥陀さまは本願を建て、そのすべての功徳を『南無阿弥陀仏』のお名号として回向し、その大いなる慈悲の心を完成させてくださった」**という、浄土真宗の救いの核心を力強く示しているのです 。
お念仏「南無阿弥陀仏」とのつながり
では、この和讃の教えと、私たちが日々お称えするお念仏「南無阿弥陀仏」は、どのように繋がっているのでしょうか?
和讃が示すように、阿弥陀さまは、そのすべての功徳と大悲心を「南無阿弥陀仏」という六字のお名号に込めて、私たちに回向してくださいました 。ですから、私たちが「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えるとき、それは単なる呪文や形式的な言葉ではありません。
- それは、阿弥陀さまからの**「必ず救う、私にまかせなさい」という呼び声**そのものです 。
- それは、私たちが**「阿弥陀さま、おまかせします」とその救いを受け取る**信順の心の表れです 。
- それは、阿弥陀さまの大いなる慈悲に**生かされていることへの感謝(報恩謝徳)**の響きです 。
お念仏を称える生活を通して、私たちは、どんな時も阿弥陀さまが共にいてくださり、その大悲心に包まれていることを確かめ、この苦悩多き人生を力強く生きていくことができるのです 。辛い時、悲しい時、嬉しい時、どんな時でも、阿弥陀さまは必ず苦しみ悩む私を見捨てずご一緒くださいます 。
結び
親鸞聖人の和讃「如来の作願をたずぬれば」は、阿弥陀さまの限りない慈悲と、私たち凡夫がそのまま救われていく道筋を、簡潔かつ深く示してくださっています。この和讃の意味を心に留め、日々お念仏申す生活を送らせていただきましょう。