新しいお寺のかたち

専明寺(下松市)浄土真宗

死んだら仏なのか

人は誰でも死んだら仏になるのか?という問いがありますが、答え方は人それぞれかと思います。
宗教や信仰、その言葉の定義から立脚点によって、その有り様はさまざまなのです。
浄土真宗の立場、その私の思いとしては以下の2つの考え方ができます。
●まず第1に、阿弥陀様はなんとおっしゃられているのか。ということです。
『仏説無量寿経』第18願には、
わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わた
しの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れるこ
とができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
つまり、すべての人々が阿弥陀様の救いの対象となり、救うと誓い、はたらいてくださっているという事です。
これを原文では十方衆生と表され、それは蜎飛蠕動(けんぴねんどう)という蜎飛とは飛びまわる小虫、
蠕動とはうごめくうじ虫までもが対象と言えるのですから、人間、この私も例外ではありません。
ですから、阿弥陀様の立場に立つと、すべてのものを仏とさせる働きですから、
「阿弥陀様のお心は、すべてのものにはたらき、お念仏となり今届いているのですから、仏となる」
と言えるのです。どうぞ今、お念仏申しましょう。
●次に私の立場で答える場合
そもそも、自分の意見を交えて答える事が、間違いの元であります。
亡き人を仏にさせる力が自分にあれば、仏になった有無を答えることができましょうが、そうではありません。
私の唱えたお経によって仏にさせるのではなく、阿弥陀様のはたらきによって仏になるのですから、
私の力に仏になったのではありません。「仏になったか?」と聞かれたら、分かりません。という事が正直な所でしょう。
私は「布教使」という資格をいただき、ご法座などで仏教の話をしています。これを法話(ほうわ)といいます。
「医師」・「看護師」という時には、師匠の「師」の字を使いますが、「布教使」はどうでしょうか。「使う」という字を用います。
これは、自らが師匠となり人の往く先を決めるのではなく、私たちは阿弥陀様のおはたらき・お心を取次ぎ、伝える存在ですので、
阿弥陀様の使いっぱしりなのです。
「南無阿弥陀仏」この6字に阿弥陀様が、「この私が仏になるように準備くださった」、「必ず救う、我に任せよ」とあるのですから、
布教使、また僧侶は、そのお言葉・お心を手垢をつけず、自らのスパイスを加えずお伝えすることが役割です。
「死んだら仏か?」という問いに、私の立場(仏にさせたかどうか)で仏の有無を答えることは、その役割に反するわけです。
私の立場で答えること自体間違いであり、そして、私が分かったように仏の有無に言及するのではなく、
僧侶は、阿弥陀さまのお心・はたらきを伝えることが役割だと言えます。
この問題について、龍樹菩薩(りゅうじゅ)は『大智度論』に「四依を釈して曰く」とその最初にこうお記しくださっています。
今日より法に依りて人に依らざるべし(註釈版414頁)
とあります。法とは阿弥陀様、人とは人間を表します。人間でもいかがわし宗教の教主様のようなものをイメージしてください。
阿弥陀様をより所とするのです。仏様をより所とすることが正しく。
人間、とりわけ教主という一人間を頼りとするなという事です。
人間によって、死後の行先が決まるわけではありません。なぜなら、その判断する人間も生老病死の迷い・苦しみの中にいて、
死という問題を解決できていない、迷いの凡夫となんら変わりがないのです。
阿弥陀様という仏さまをより所として、人間の言う「仏になったかどうか、有無」を頼りとするなとお記しくださっているのです。
よくよく考えてみれば、昔から同じようなことが言われていたのでしょう。悟ったような口ぶりで人を迷わす人がいたのでしょう。
それは現代とて同じように思います。だからこそ、仏様やお経という偉大な言葉に耳を傾ける必要があるのです。
この2つの立場で考えてみました。「仏になったのか?」という問いに対して、阿弥陀様と私(人間)の立場で答えられます。
最後に、なぜそのような「問い」が生まれたのかを明らかにして、自分を振り返ることが重要と思います。
先ほどの答えが重要なのではなく、この問いが生まれた理由と、いま自分が何を思っているのかを明らかにすべきです。
「大切な人の行き先」よりも、この私が如何に存在し、やがて命終えていく中で、自分はどこへ行くのか。その答えを求めていくことが、
この「人はだれしも仏となるのか?」の答えが自ずと出てくると考えます。
そのために、お寺にお参りしてみてください
。法座が開かれていると足を運んでください。
ほとけになるとはどういうことかをお聴聞ください。
ほとけについて、なにも考えなかった人生から、「ほとけとは何か?」と考える人生を送ることこそ、仏様が
私にはたらき、お念仏申す身にお育てくださっている証拠なのだと思います。