あるカレンダーにこのような言葉がありました。
「水はつかむものではなく、すくうもの。人の心はくみ取るもの」
水を力任せに掴もうとしても、手からすり抜けていきます。
そっと手を添えて救えば、汲み取れます。
物事には、方法というものがあります。
人間の心もそうではないでしょうか。
自分の気持ちを一方的に伝えようとしても、なかなか伝わりません。
「あなたの事を思って言っているのよ」と、どれだけ相手の事を思っても、
伝えようとすればするほど、相手には跳ね返されるようなことがよくあります。
力任せには物事は伝わりません。心にも、いくらか方法があるようです。
相手の心を汲み取り、自分の側が言葉を変えて、伝えることがいいようです。
自分の気持ちを抑えることは難しいことです。日常生活でどうしても我が出てします。
けれども、少し相手の心を汲み取り、表現を変えてみるだけでも、少し心が通うように思います。
仏さまとの向き合い方も、この「汲み取る」という事が大切に思います。
この夏のお盆参りでは、度々同じ話をさせていただきました。
「どうか先達の方のお心を汲みとってください」ただそれだけを伝えた夏のように思います。
私たちは、今日という1日を当たり前のように過ごしてしまします。
けれども、私が今日目覚めて、当たり前のように自分の布団で眠れている事をよくよく考えてみますと、
それは当然のことではないことに気づきます。
亡き方からすれば、切実に生きたいと願った1日だったのではないでしょうか。
もし仏さまのお心と向き合うならば、
今日の私たちの過ごし方によって、亡き方は喜ばれるでしょう。
しかし、今日の1日の過ごし方によっては、涙されるのではないでしょうか。
今、今日の連続が、私たちの残された人生・命であります。
その過ごし方は、お心を汲みとったならば、無駄に過ごしては申し訳ないように思います。
やがて私も、一人でその一歩を進んでいかなければなりません。
あまり悲しませすぎたら、お浄土で申し訳がたちません。
また笑顔で胸をはって出会えるには、やはり仏さまのお心汲んで、今日の、今を大切にしたいものです。
阿弥陀様、先立って逝かれた方は、けっして迷っているわけでも、成仏していない訳ではありません。
仏になればこそ、今この迷い娑婆世界に帰り来て、私たちを導いてくださっています。
いつもそばに居て、見守ってくれているのであり、お盆だけの期間限定ではありません。
忘れてしまうのは、いつも私の方なのです。だから、手を合わせてその御恩(仏さまのお心)に感謝し、
また会える日を楽しみに、今は共々にお念仏を申させていただきましょう。
水はつかむものではなく、すくうもの