漂流から航海へ-阿弥陀さまの弘誓の船に乗せて-

航海と漂流

もし私たちが船に乗って旅に出るとします。その船旅が、明確な目的地(行き先)に向かって進んでいるのであれば、それを私たちは「航海(こうかい)」と呼びます。それに対して、特に定まった行き先もなく、ただ海の上をあてもなく進んでいるだけであれば、それは「航海」とは言わずに、「漂流(ひょうりゅう)」と言います。

私たちの人生の旅

さて、この私たちの人生を、一つの「旅」に例えたとしたら、どうでしょうか。私たちのこの人生という旅には、誰にとっても必ず「終わり」がやってきます。「まだまだ終わらせたくない」「いつまでも元気でいたい」と、どれだけ強く心の中で願ってみても、必ずご縁が尽きて、この世を去ってゆかねばならなくなる時が、必ずやってまいります。

もしもその、人生の最後の時に、「私は死んだら一体どうなるのだろうか」「私の人生は、結局何だったのだろうか」というような、行き先に対する漠然とした不安を抱えたままであったとしたら、どうでしょうか。ひょっとしたら、それまでの人生でどれだけ多くのものを得ていたとしても、「これまでの人生は、結局、何の意味もなかったのではないか」と、最後は空しく終わってゆかねばならなくなるかもしれません。それは、まさに行き先を見失った「漂流」の人生と言えるのではないでしょうか。

行き先を示す確かな光

しかし、阿弥陀さまは、必ず死んでゆかねばならないこの私を、決して死んで終わらせるのではなく、必ず阿弥陀さまのお浄土に生まれさせ、そして仏に成らせて下さるのだ、と固くお誓いくださいました。

そして、その阿弥陀さまの「必ず救う」というお誓いが、完全に完成して、今、この私のところにまで「南無阿弥陀仏」という、仏さまのお名前となって至り届いて下さいました。これこそが、私たちの人生の確かな行き先を示す、頼りとなる光なのです。

生死の苦海を渡る船(親鸞聖人の御和讃)

親鸞聖人は、その阿弥陀さまの広大な救いのおはたらきを、私たちを乗せて彼岸(ひがん:お浄土)まで必ず渡し届けてくださる大きな船にたとえて、次のような御和讃で示してくださいました。

「生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし
久(ひさ)しく沈める我(われ)らをば
弥陀弘誓(みだぐぜい)の船(ふね)のみぞ
乗(の)せて必ず(かならず)渡(わた)しける」

(意訳:迷いの生まれ変わり死に変わりを繰り返す、この苦しみの海(生死の苦海)には、岸(ほとり)が見えない。その海に、遠い過去から久しく沈み続けてきた、この私たちを、ただ阿弥陀さまの広大な誓願(弘誓)の船だけが、その船に乗せて、必ず向こう岸(お浄土)まで渡し届けてくださるのである。)

漂流から航海へ

どこへ向かっているのか、行き先の見えない不安な人生を歩んでいたこの私に、「必ずお浄土へ生まれさせ、仏にする」という、間違いのない往き先をご用意下さった阿弥陀さま。この人生で何があろうとも、どのような状況になろうとも、いつも私と共にいて、お浄土まで一緒に歩んで下さる阿弥陀さま。

ここに、ただ漠然と時の流れに身を任せ、不安の中に漂流していた私の人生が、阿弥陀さまという確かな行き先、そして確かな人生の目的を与えられた、安心の船旅、「航海」の人生へと、大きく転じられてゆくのです。