新しいお寺のかたち

専明寺(下松市)浄土真宗

無碍光の仏さま

阿弥陀如来さまを、色々な方法・喩えで讃嘆されますが、その1つに無碍光の仏さまと
表せられます。
正信偈には
普放無量無辺光 無碍無対光炎王 清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹
このように、「無量光」「無辺光」「無碍光」「無対光」「光炎王」「清浄光」「歓喜光」「智慧光」
「不断光」「難思光」「無称光」「超日月光」と12の光に喩えられます。
親鸞聖人はお手紙の中で、12の光に喩えられているが最も大切なモノは「無碍光」であると述べられます。
直筆の名号には「帰命尽十方無碍光如来」とお書きになっております。
「十方に普く届く遮られることのない光の仏さまに帰依します」と訳せるでしょう。(詳しくは省略します)
なぜ、この無碍光と最も大切であるとされたのでしょうか。
私たちには煩悩があり、これは断ち切ることができません。また断ち切った人にであったこともありません。
この煩悩の所以によって、私たちは思い悩むのです。その煩悩がある事実を事実のままに自己を見つめてみましょう。
一般的に大晦日には梵声を108回叩きます。これは人間には108つの煩悩があり、大晦日に煩悩を梵声を叩く
ことによって煩悩を打ち消し、新年を迎えるという意味があるからなのです。
この煩悩108つと言われますが、これは具体的に108つあるのではなく、それほど多い煩悩を抱えている
ことを表すので、この数にはとらわれません。たくさんの煩悩を108つとされたのです。(諸説あり)
この108つを、大きく3つに分けると、「貪欲」「瞋恚」「愚痴」に分けられ、煩悩の根本、三毒の煩悩と言われます。
「貪欲」とは、どれほどものを手に入れても、満足することのない心
「瞋恚」とは、いかりの心
「愚痴」とは、この現状に満足することなく、不平不満ばかりの心
この3つが私にあるというのです。
私たちに、煩悩を断つことはできません。つまりこの3つの心が常に私にあることを教えてくれています。
この欲望にまみれ、いかり狂い、愚痴ばかりが私であり、煩悩の姿で、死ぬまで変わりません。
※極端な物言いですが、大なり小なり私には必ず煩悩はあり、他人と比べて相対として見るべきではなく、
環境が変われば、この「煩悩に振り回される自分である」と自己を省みることが必要です。
この煩悩に対して、遮られることの内から無碍光であると言われるのです。
どんな煩悩を持とうとも、この阿弥陀如来のお救いに遮られることはありません。
この煩悩を断たずして、救われるのが阿弥陀如来さまなのです。
偉くなれ、聖人君子、立派な人しか救われないのであれば、それは人間の中の一部しか救われず、
結局、この世界、相対の世界となんら変わりがありません。
自他一如、この相対の世界を越えて、阿弥陀様の救いにあずかるということは、この貧富・貴賎・善悪・
煩悩の大小に捕われない世界に生まれることなのです。
阿弥陀様から見れば、私たち一人一人が救いの目当てであります。
私も救われる、あなたも救われる、だからまた会える世界が待っているのです。
この煩悩に私が振り回されようとも、けっして私を見捨てられない阿弥陀様であります。
どれだけ阿弥陀様のお心を痛めていることでしょうか。
足りない足りない欲望の私をご覧になって、涙され
いかり、自分を忘れる私をご覧になって、涙され
私の愚痴ばかり言う姿をご覧になって、涙され
それでも見捨てられない親様が、阿弥陀如来さまなのであります。
その愛情いっぱいに包まれている私に気づいた時に、親を泣かせないようにしようというものです。
正信偈に「不断煩悩得涅槃」煩悩を断たずして、浄土に生まれ仏となるとあります。
私も、この煩悩にまみれた自己を見つめつつ、残りの人生は報謝の生活に変わります。
これは、浄土真宗の話を聞いた者しか分からないことです。
煩悩を断つのではない、この弥陀に気づいた時に自ずと変わっていくのが浄土真宗の姿なのでしょう。