新しいお寺のかたち

専明寺(下松市)浄土真宗

無量寿のいのち

「この足が 俺より先に 歳をとり」(よみうり川柳)
自分はまだまだ若いと思っていても、いつも間にか足や腰に不具合(体調不良)が出てくる。
体を支え、軸となっていた足や腰は、いつも思い通りになるものではなく、疲労が溜り、回復が遅くなり、
気づけば私の口から愚痴となり、不平不満が出ているのである。
先日、近くの運動公園で走っていると、昔はスイスイと走れていたのに、今はどうでしょうか。
しんどくなるよりも、膝のほうが痛くなるではないですか。日頃の不摂生で体重の事を改めて考えなければいけません。
気づけば日頃から体重を支えるだけでも、この足には大きな負担をかけていたのでしょう。
どれほど若い、健康だと思っていても、それは夢・幻のごとく、やがて生きたいと思っていても命の終わりは
必ずくるのです。
その命を虚しく・無駄に終わらせてはならないと、私のところに到り届いて南無阿弥陀仏とはたらいてくださって
おられる方が、阿弥陀さまなのです。そして、私たちを浄土に生まれさせ無量寿の命を与えてくださるのです。
思い悩む私と、その私を救う働きの阿弥陀様は、まさに病と薬の関係に似ています。
病気をしているのが、私。
そして薬が阿弥陀様、または阿弥陀様のはたらきと言えましょう。
病気になると、病院に行って薬をもらいます。病気でもないのに、薬をもらいに行くことはないでしょう。
病があって初めて、初めて薬が存在するように、病に合った薬が誕生するのです。
胃が痛いときには、胃薬を。頭が痛いときには頭痛薬を処方してもらいます。
これは、当たり前のことですが、胃が痛い人がいたから、胃を痛みを治してあげたいと思って薬を作られた人がいて、
頭が痛いという人がいたから頭痛薬が開発されたのでありましょう。
今、私たちは薬を処方してもらって「これが本当に痛みに効くのか、成分は何なのか?」と疑いながら飲む人はあまりいません。
また、成分や効果が分からないと飲まないという人も少ないかと思います。
それは、医療が培ってきた経験やお医者さんという人柄に身を任せて、この痛みのコントロールを任せたからでありましょう。
「病を治したい」と病を目当てとして働いてくれる人がいて、その結果が薬という姿となって、私の元に届いていたのであります。
裏側までは目に見えないものですが、薬一つ取ってみても、多くの方に支えられながら、この私に到り届いているのであります。
先ほども申しましたように、この私の苦悩と阿弥陀様の関係も同じであります。
生まれてきたものは、必ず命終わっていかなければいけません。それは、人間も同じ、生物は皆そうであります。
その思い悩む・苦悩する私たちを目当てとして、はたらいてくださるのが阿弥陀様です。
命終わる私たちに、仏となる人生を与えてくれるのが仏になるということです。
今までは死ぬばかりと思っていた私たちが、仏の無量寿の命に今度はさせていただくのです。
どれだけ自力で鍛えても、修行しても、この老・病・死からは逃れられません。
だれかに(友達・家族)命をください、代わってくださいと言っても、それは叶いません。
愛しい子であっても、私たちの力では無力な人間なのです。
下関市徳応寺前住職・戸崎達也様はがんの療養中に「命」と題して手記を残されています。
その一部を掲載させていただきます。
「如来さまだけがくださる無量寿の命をやさしくほほえみながらありがとうございますとお念仏する」
※如来さま:阿弥陀さまのこと
決して虚しく・無駄に終わる命ではありません。
この苦しみ・苦悩の薬はただ一つ、阿弥陀様という薬にお任せするただ一筋の道なのです。