新しいお寺のかたち

専明寺(下松市)浄土真宗

物干し竿の救いではない

浄土真宗の救いは目当ては、「この私」という自覚のもとにある。
親鸞聖人は歎異抄に
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」
とある。
中央仏教学院に通っていた頃、ある友達が阿弥陀様の救いの姿を
「空高くから大きな網を持って、我々人間をごっそり救ってくださる。
それは成績が良い人も、嫌いなあいつも、この俺も救いの目当てなんだ」
というように表現されていました。
今考えてみると、その友達の表現は少し違うように思えるようになりました。
「海に溺れている私を、仏さま自らこちらに来て、私一人を救うために来られる」
というように、思えるようになりました。
ある先生は、この救いの姿をウナギを捕まえる籠で表現されました。
「大きな籠じゃ、ウナギにゃ合わない。小さすぎると入れない。このウナギが入れるように、
ウナギの大きさに合わせてご準備くだされたのが阿弥陀如来さまである」
とおっしゃられていました。ウナギが大きくなろうとも、入れるように小さくなる努力は必要ありません。
弥陀の側が、すべてご準備くださった。その中に私がいるのです。
この娑婆世界に生を授かり、死を越えていける教え(宗教や信念・啓発系思想)に出会ったとしても、それが
溺れている人に渡された物干し竿のような教えでは、【必ず救われる】保証なんてありません。
その助けの綱を、私が握らなければ地獄に落ちていく。一瞬の気も許されないのであれば、
死ぬが死ぬまで「あぁ大丈夫」なんて安心できませんし、自分らしさなんて無くなってしまいます。
真実の教えとは、時代・国・文化・人間が変わろうとも、等しく救われる教えでなければなりません。
どれだけ優れた教えでも、落ちこぼれが出るようならば、この私には到底無理な教えでしょう。
私が救われ、両親が救われ、子どもも救われなければ、どうして喜べましょうか。
阿弥陀如来さまは、この私一人を目当てとして、「南無阿弥陀仏」に救われる修行も功徳も込められました。
私が仏とならんなら、自分も仏とはならんと誓われた親さまです。私を抱えて五劫思惟され、兆載永劫の
ご修行をされて、阿弥陀という仏になられたのであります。
この私が人間に生を受け、遇い難くして今お念仏に出会いました。
この道が、唯一私が救われる道であり、あなたの大切な人も、一緒に救われていける道なのです。