私からではなく、仏さまから

季節の移ろいと お参りの日々

春の暖かな日差しを感じるこの頃ですが、季節は巡り、やがてまた冷たい風が吹く時期がやってまいります。これからの季節、特に秋から冬にかけて朝夕の冷え込みが厳しくなってまいりますと、年末年始に向けて、各ご家庭でのお取り越しのご法事や、お寺での報恩講(ほうおんこう:親鸞聖人のご命日の法要)など、寒さの中にも心が温まる大切な仏事がお勤めになられることと思います。

そのような行事の中では、気候の変化に伴い、お参りの方同士が口々に交わす挨拶(あいさつ)の言葉にも、自然と季節感が反映されます。例えば、寒い朝には、

「いやぁ、今朝は冷えましたねぇ」

といった言葉が、ごく自然に交わされるようになります。

どちらが先か

さて、ここで少し考えてみたいのですが、私たちが挨拶の中で「今朝は冷えましたね」と口にすることと、冬の厳しい冷え込みの訪れと、どちらが先なのでしょうか。

もちろん、冬の訪れが先ですね。私たちが「寒い、寒い」と口にするから、その言葉によって気温が下がったのではありません。まず先に、朝夕の厳しい冷え込みがあり、肌に突き刺さるような風の冷たさがある。その、私たちを取り巻く自然の大きな変化が、私たちに「寒い」という想いを起こさせ、そして、ついには口をついて「いやぁ、冷えましたね」という挨拶の言葉となって顕(あらわ)れてくるのです。

阿弥陀さまのおはたらきが先

私たち浄土真宗のみ教えをいただく者同士は、阿弥陀さまという仏さまのお慈悲のおはたらきを共に慶び、日々お念仏申させていただく、大切な仲間(同朋 どうぼう)です。お寺などで出遇った時には、阿弥陀さまのお慈悲を共に慶び、そして別れの際には、

「またお会いしましょう。またご一緒にお念仏申しましょうね」

と、自然に挨拶を交わします。

この、私たちがお互いにお念仏を申し、阿弥陀さまの救いを慶ぶ、その心。これもまた、先ほどの気候と挨拶の関係と同じように、私たちが自分から「よろこぼう」としたり、「お念仏申そう」としたりする、そのずっと以前に、すでに私たちの上に届いていた阿弥陀さまのおはたらきによるものなのです。

阿弥陀さまの、「この私を必ずお浄土へと生まれさせ、仏に成らせずにはおかない」という、深く強いおはたらきは、この私を必ず「お念仏を慶ぶ身」にしようと、今、この場所、この瞬間にまで、絶えることなく届いています。私たちは、その阿弥陀さまの力強いおはたらきによって、まずお互いがお念仏を慶び、そしてついには、我が口からお念仏を申させていただく仲間(同朋)と、成らしめられているのです。

「他力の信心」ということ

この、阿弥陀さまの側からの一方的なはたらきによって、私が仏さまの救いを疑いなく受け入れる身とならせていただく、その心のありようを、私の側から申しますと「他力(たりき)の信心(しんじん)」と申します。「他力」とは阿弥陀さまのお力、「信心」とは疑いのない心、信じまかせる心です。

この信心は、私が自分の努力で起こした信心ではありません。阿弥陀さまのお心が、そのまま私の上に届いてくださった、そのお心をいただくものですから、「いただく」という謙譲の気持ちを込めて、「ご信心」と、私たちは大切に申します。

蓮如上人のお示し

室町時代に浄土真宗の教えを再び興された蓮如上人さまは、この浄土真宗のみ教えの要(かなめ)について、私たちに繰り返し、このようにお示しくださいました。

 「(浄土真宗のみ教えは)他力信心(たりきしんじん)、他力信心と、ただこの一点に尽きるのだと見定めていくならば、決して間違うことはありませんよ」

と、私たちを導いてくださっています。まことに、ありがたいことであります。