老少不定の世に聞く

私たちは、日々の忙しさの中で、つい「いのち」には限りがあるという事実を忘れがちです。そして、無意識のうちに、「若い人はまだ先があり、年老いた人から順に世を去っていくものだ」というような、漠然とした思い込みを持ってはいないでしょうか。しかし、現実は必ずしもそうではありません。

「当たり前」という思い込み

普段、お坊さんとしてご法事やお通夜の席で、「老少不定(ろうしょうふじょう)と申しまして、年配者よりも先に若い方が亡くなることもあります。いつ誰がどうなるか分からない、それがこの世の中のありのままの姿ですよ」と、皆様にお話しさせていただいているにも関わらず、この私自身が一番、「老いたる者が先に亡くなり、若い者が後に残るものだ」という固定観念に、深く囚われていたのかもしれない、と気づかされる出来事がありました。

その時、インターネットのツイッターに投稿されたある方の言葉が、大変に心に沁み入りました。

「ほんとにいなくなってしまう人は、いちばんいなくなってしまいそうな人とは、限らないのだ」

別れを通して教えられること(和泉式部のうた)

年若い方が先に亡くなることを「逆縁(ぎゃくえん)」と言ったりしますが、その辛い別れを通して、亡き方を、私を仏道に導いてくださる「善知識(ぜんちしき)」として仰いでいく、という受け止め方もあります。

平安時代の優れた歌人であった和泉式部(いずみしきぶ)は、一人娘に先立たれた時、その深い悲しみと、亡き子への断ち切れない思いをこのように詠んでいます。

その心を「子は死して たどりゆくらん死出の道 道知れずとて帰りこよかし(大意:我が子は死んで、今頃あの世への道(死出の道)を辿っているのだろうか。もし道が分からずに迷っているのなら、どうか私の元に帰ってきておくれ)」と詠んでいます。

最愛の我が子を失った悲しみは、計り知れないものであったでしょう。しかし、その和泉式部が後に仏様の教えに出遇い、死という厳しい現実を受け入れていった時、再びこのように詠みました。

その時に詠んだのが「仮に来て 親にはかなき世を知れと 教えて帰る 子は菩薩なり(大意:子どもはこの世に仮の姿でやって来て、親である私に、この世の儚さという真実を教え、そして(本来の世界へ)帰っていったのだ。我が子は私を導いてくださる菩薩様であったのだ)」という歌です。

阿弥陀さまに抱かれて(仏事のご縁)

自分の子どもや、あるいは若くして亡くなった方の死という、逃れ難い、厳しい現実。それを、ただ悲しい出来事として終わらせるのではなく、この私を目覚めさせるための尊い仏さま(菩薩)のご縁であったと受け入れていくことができるのはなぜでしょうか。

それは、私たちのいのち、その喜びも悲しみも、すべてを丸ごと抱きとって、決して見捨てることなく、「必ず仏に仕上げる」と願い、はたらき続けてくださる、阿弥陀如来さまという仏さまが、いつもこの私と共にいて下さるからであります。

そして、その阿弥陀如来さまとの確かな出遇いの場として用意されているのが、お通夜やご葬儀、そして年回法要といった、私たちがお勤めする様々な「仏事」ではないでしょうか。仏事は、亡き人を偲ぶと共に、阿弥陀さまの限りない慈悲に触れさせていただき、この私の生き方自身を見つめ直す、かけがえのないご縁なのです。