親のまなざし、ほとけの願い

ある朝の光景

よく晴れた朝、お参りに行く道すがら、ある家の前で「いってきまーす。」と大きな声が聞こえました。小学生くらいの男の子とその子のお母さんが玄関から出てきて、外まで見送りをしているようです。

男の子は、私の存在に気付くと大きな声で「おはようございます。」と挨拶をしてくれて、私の前を元気よく走って行きました。「微笑ましい親子だな、いい子だな」と思いながら男の子の背中を見ていると、彼はぱっと後ろに振り返って、何度も何度も手を振りながら「おかーさーん。」と叫んでいます。驚いて私も一緒に振り返ってみると、お母さんはまだ玄関先で、男の子の姿が見えなくなるまで「いってらっしゃーい。」と手を振り続けているのです。男の子はまた前を向き走り始めましたが、少し進むとまた振り返り、お母さんに手を振っています。結局、お母さんはずっと手を振りながら、男の子に声をかけ続けていました。そして男の子も、遠くに行けば行くほど、まるで叫ぶように「おかーさーん」と、母親を呼び続けていました。

この光景を見ていると、ふと、私自身の小学校の頃の記憶がよみがえりました。思い返してみると、小学校の頃は母がいつも玄関先で見送ってくれていたように思います。そして、その見送られる情景を今でも覚えているということは、きっと、あの男の子のように私も母の名を呼んでいたのでしょう。母は、私が元気よく喜んで学校に出かける時は、同じように元気に「いってらっしゃい」と送り出してくれましたが、私が何か不安そうに学校に出かける時は、「大丈夫かな。」と心配そうに見送ってくれたものでした。私はそんな日々のことなどすっかり忘れていましたが、皆様の中にも、母親に見送られた温かい想い出がある方もおられるのではないでしょうか。

子が母を思うように(親鸞聖人の和讃)

親鸞聖人は『浄土和讃』の中に、お念仏のこころを次のようにうたわれています。

親鸞聖人は『浄土和讃』に、「子の母をおもふがごとくにて 衆生仏を憶すれば 現前当来とほからず 如来を拝見うたがはず」とお念仏のこころをうたわれています。 (意訳:子どもがその母親を常に心にかけて慕うように、私たち衆生が阿弥陀さまのことをいつでも忘れずに信じ、お念仏申すならば、この世においても、また将来お浄土に生まれて往くときも、阿弥陀さまは遠く離れることなく、私たちのすぐ側にいて下さり、そのお姿を疑いなく拝むことができるのですよ)

阿弥陀さまの親ごころ

阿弥陀さまは、私たち一人ひとりを、まるで我が子のように思って下さっていて、いつも私たちを見ておられます。そのおこころは、先ほど私が見かけた男の子のお母さんのように、見えなくなるまでわが子の姿を見守り、その呼びかけに応えようとする、その姿とどこか似ているのかもしれません。

そして、あのお母さんは、きっと、男の子の行く先に悲しい思いがないように、苦しい思いがないように、そして元気に家に帰って来ることを願いながら、手を振っていたのだと思います。恐らく、その願いは、単に男の子を学校に無事に送り届けるというだけの短期的な願いではありません。男の子が成長し、その将来に至るまで、ずっと支え寄り添っていきたいという、深く長い願いが込められているのでしょう。

これからあの男の子は、もしかしたら私のように、お母さんとの日々のやりとりを、当たり前の日常として、いつしか忘れていくのかもしれません。しかし、このような深い願いと愛情の中で育まれた男の子は、人生の様々な苦しみや困難に出遇った時にも、ふと母の名を呼び、母の面影がよみがえることがあるのではないでしょうか。その時、「自分はひとりきりではなかった。私の人生には、いつも私を案じ、待っていてくれる人がいたではないか」と、母親の存在そのものが、人生を支える大きな力であったのだと気づかされるのではないかと思います。

親の名乗り「南無阿弥陀仏」

この親の深い願い・愛情というものは、残念ながら、我が子やごく身近な人にしか及ばない、限りのある心です。しかし、阿弥陀さまは、私たちひとつひとつのいのちを、分け隔てなく等しく「我が子」としてご覧になり、その願いのすべてをかけて、限りなくはたらき続けてくださる仏さまです。

その阿弥陀さまの「すべての子らを必ず救う」という願いが形となったもの、それが「南無阿弥陀仏」です。 「南無阿弥陀仏」とは、「必ず救う。私にまかせなさい。」という、親である阿弥陀さまが子である私たちを喚(よ)び続けてくださる声であり、また同時に、子が親のその願いに「はい。ありがとうございます」と安心しておまかせします、と返事をする声でもあります。つまり、「南無阿弥陀仏」は、私たちにとっての真実の親である阿弥陀さまの「名のり」なのです。

ひとりじゃないと生きる力

阿弥陀さまは、いつでも、どこでも、私たちとご一緒です。私たちが手を合わせて、「南無阿弥陀仏」と、阿弥陀さまのお名前を呼ぶとき、阿弥陀さまはすぐに私のそばに来てくださり、「あなたの親は、ちゃんとここにいるよ。いつもあなたのことを見護っているよ。」と、温かく語りかけてくださっています。

私がお念仏の意味も分からずにただ口にしていたような時から、いえ、それよりも遥か昔から、ずっと変わることなく、一時も途切れることなく、真実の親である阿弥陀さまに願いをかけられ、喚び続けられていたのだということを、この度の親鸞聖人のご和讃を通して、改めて知らせていただきました。

そして、お念仏は、この私を決してひとりにさせまいとする親の喚び声であり、その喚び声こそが、私の人生を根本から支え、生き抜く力そのものであると、深く慶ばせていただいております。