途方もないご縁に生かされて

人間に生まれるということの「有り難さ」

皆さんは、この私が「人間」として、この世に生まれてきたということは、本当に「有り難い」ことだなぁと、お考えになったことがありますでしょうか。仏教では、私たちが人として生まれるということは、大変得難く、貴重なことであると教えられます。そして、その得難い人間の身を、私たちはすでにこうして生まれさせていただいている。その事実は、本当はとても有り難いことなのです。

では、私たちは一体なぜ、この人間の親のところに生まれることができたのでしょうか。自分で「この親のところに生まれたい」と望んで、また選んでそうなった人は、私たちの中には誰もいないはずなのに、不思議なことだとは思われませんか。

いのちのルーツを遡れば

私には親がいます。その親には、さらにその親、つまり祖父母がいます。考えてみますと、一人の私には父と母の2人の親がおり、その親にはそれぞれまた2人の親(祖父母)がいますから4人。その祖父母にもまたそれぞれ2人の親(曽祖父母)がいるので8人。さらにその親は16人…というように、世代を遡るごとに、ご先祖さまの数は倍々に増えていきます。

単純に計算していくと、27代まで遡ると、その数はなんと1億3000万人を超えることになります。これは、あくまで私一人のご先祖の方の理論上の計算ですが、もちろん、皆さんのひとりひとりについても同じことが言えるわけです。ちなみに、27代前といえば、おおよそ鎌倉時代の頃になりますから、当時の日本の総人口が、そんなにたくさんいたとは考えられません。これは、歴史を遡れば、私たちのいのちのルーツは、どこかで複雑に交差し合い、皆つながっている、ということも示唆しているのかもしれません。

しかし、ここで大切なことは、この理論上1億3000万人を超えるほど多くのご先祖さま方の、その誰か一人でもいらっしゃらなかったとしたら、今の「私」という存在は、決してここには存在しなかった、ということです。これほど多くの、数えきれないほどの「いのち」の繋がり、そのバトンを受け継いで、初めてこの私は、この世に生まれることができたのです。

無数のご縁に支えられて

考えの及ばないような程の多くの力、目には見えない様々なはたらき、そして数限りない尊いご縁のおかげで、初めてこの私は、今ここに「人間」として生かされているのです。人間が「尊い」と言われる、その一面が、まさにここに示されているのではないでしょうか。

私たちは、その意味を、日々の生活の中で、どれくらい深く気づいているでしょうか。立ち止まって考えてみたことがあるでしょうか。そして、その尊いいのちの事実にふさわしい生き方をしようと、心がけているでしょうか。

阿弥陀さまの光に照らされて

阿弥陀さまの智慧の光に照らされている、この「私」であるということに思いをいたすとき、今まで、いかに私が自分中心にしか物事を考えず、この尊いいのちの事実にも気づかずに生きてきたか、その恥ずかしい身のありさまに気づかされます。

しかし同時に、そのような私であるからこそ、阿弥陀さまは深い願いを起こされ、真実の教えを説き、今まさに、この私のところまで届いてくださっている。そのことに気づかせていただく、今日一日一日でありました。