新しいお寺のかたち

専明寺(下松市)浄土真宗

造られもの

近所の話ですが、来年の3月から工事が始まり大きなイオンモールができるようです。
その大きなイオンモールから約2キロのところにサンリブや西友、また徳山に新たにできた
ゆめタウン徳山があります。
久米地区の新たな道路開通によって、町は活気づいています。大きなショッピングモールが
増えるのもいいですが、その半面、町の小売店がさらに辛い立場にならないように、
また既存のショッピングモールの衰退にならなければと心配しています。
今では当たり前のように道路があり、そこを車が通っています。
その光景が当たり前すぎて、舗装されていない道や路面状態が悪い場所を
見ると違和感を覚えるほどです。
けれども、本来はそこには草木も虫も鳥も当たり前に存在していた場所でした。
そのあった自然はどこへ行ってしまったのでしょう。私たちの当たり前の反面、
居場所を追いやってしまった存在があることを忘れてはいけません。
昔、御門徒さんと話をしていた時です。
法事のお参りを終えて、世間話をしている時でした、ふと庭を見て
「ここにもよく鹿や猪が来るんだよ、うり坊は可愛かったなぁ」
確かに町中ではなく、少し先に山があるような家ではありましたが、
まさか庭に鹿や猪が出てくるような場所だとは思えませんでした。
「こんなところにも出てくるんですねー」というと
「もしかしたら、この家が立つ前はここが彼らの家だったのかもしれないね」
と笑っておっしゃられたことでした。
私は、ここに鹿やイノシシが出てくるなんてと当然に思っていたことが、
ふと視線を変えてみると全然当たり前じゃなかった事に気付かされます。
鹿やイノシシが森から降りてきたんじゃなくて、私たちがその場所を奪い、
住んでるだけ、ここも昔は自然の中に共に住んでいたときがあると気付かされます。
草木も昆虫も鳥もかつては、私たちの生活のいたる所にあったはずなのに、
いつの間にか周りには造られたものばかりに囲まれていることに気づきます。
例えばお花でも綺麗に生けられているのを見ますと、心が落ち着きます。
綺麗に生けられて花も喜んでいるとは思いますが、私の住んでいるところでも
生けられた花のすべてを地面から生えているのを見たことがありません。
綺麗に生けられた素晴らしい花々の本来の姿、地に根を張り咲き誇っている姿を
見たことがないのです。私でそうなのだから、都会の方ではまず自然に
咲く本来の花の姿を目にするのは難しいことなのだと想像できます。
自然なものが無くなり、人工的なもので囲まれる。当たり前が変わる中で
私たちはいつのまにか、人への価値観が自分たちまでその一種になり変わってはいないでしょうか。
社会の中で、人までもが会社の歯車となる。それも取り換えのきく使い捨ての歯車であれば、
代用がきくものと人間の価値観が変わってしまえば、そこはもうロボット(物と)も何も変わりません。
むしろロボットの方がミスが少なければ、人の存在価値さえも失われつつあるのが
今の世相のように思います。
また命の見方もそうであります。まるで自分や周りだけは無限の命であるかのように、思えてしまいます。
周りを見れば、葬式に参列したり、見たり聞いたりしていても、我が事とは思えずに、
風景としてしか捉えられていなかった。大切な人との別れがあって初めて命の尊さに気づくのであります。
命に変わりは聞きません。あなたの変わりはききません。みなそれぞれ尊い命なのです。
8代宗主の蓮如上人の『御文章』には
「わが身の罪のふかきことをばうちすて、仏にまかせまゐらせて、一念の信心定まらん輩は、
十人は十人ながら百人は百人ながら、みな浄土に往生すべきこと、さらに疑なし。」
(五帖目第四通)
と、ありますように、仏さまは一人ひとりの心に、私の支えとなってくださり、
決して見放しはしないとのはたらきにより、救われていく我が身がここにあるのであります。
私のいのちの上にも、救われていく命であったと気づいていけるのであります。
現代の科学者や知識人の言葉には、あまり宗教的な思想を感じられません。
見えないものを扱う宗教、見えないモノを感じていくものが宗教だからこそ
それらを一切排除した生活が、科学や知識なのでしょう。
けれども、その科学や知識の中には、救い(安心とも言い表せる)はありません。
どれだけ科学は進歩しようとも、人間の死亡率は変わりません。
どれだけ知識を身につけようとも、太刀打ち出来ない問題がやってきます。
どれだけ身を固めても、その身体が頼りにならなくなる「その時」がやってきます。
この命の上に「はたらいて」くださっている仏さまを感じることがなければ、
やがて「死んで終わりの命」で終わってしまします。
昔は自然の中で、草木や昆虫や鳥など多くの命の中で生活していた時には、
当然に、(老病)死に直面していました。草木・昆虫・鳥だけれはなく
日常の生活の中に、人の老病死にも出会っていたことでしょう。
だからこそ、どこまでいっても思い通りにならない「いのち」である自覚は身に備わっていた。
けれども、今では「自分だけは大丈夫」周りは「風景」で終わっているから気づけ無いのです。
ロボットならば、部品を交換すれば直ります。けれども、私のいのちはそうじゃない。
私だけじゃない、家族も、友達も、上司も、その家族も、嫌いな人も・・・みな変わることの
出来ない尊い命を生きている。造られ物じゃない、尊いいのちなのです。
私も尊い命であると気づいた時に、我々の生き方が少し変わります。
そして死んで終わりじゃ無い、「十人は十人ながら百人は百人ながら」
この私はこの私ながら仏になる命を生きていると気づいた時に、
人生の歩みが大きく変わるのです。人生の最後、命のかぎり
この視点こそが仏さまのお心であり、科学や知識では味わえない
素晴らしいみ教えなのであります。
私たちは造られものじゃありません、限り有る尊い命を今生きており、
この生命の上に、いつも阿弥陀如来さまが温かく見守ってくださっているのであります。
当然じゃない、有り難いご縁に今遇わせて頂いております。南無阿弥陀仏