本堂の中を見てみますと、中央にキンキラキンの仏さまが御安置されています。
これは阿弥陀(あみだ)という仏さまで、阿弥陀仏・阿弥陀如来とも申します。
阿弥陀様は、この世に人間として生まれてきた人間ではありません。実在する人物ではないのです。
この世に一人だけ、実在した仏さまがいます。それはお釈迦様です。
2500年前のインド、王家にうまれ、やがては王様となる人でした。
お釈迦様が、仏さまになられたので、たくさんの人がお釈迦様の周りに集まります。
たくさんの人がお釈迦様の話を聞きに来られます。そのたびに、お釈迦様は
一人ひとりに話をされたのでした。その話が語り継がれ、文字にされたものがお経です。
一見漢字ばかりで難解なものですが、お釈迦様のお言葉そのものを今の私たちが拝読し、
お話を聞かせて頂いているのです。
阿弥陀様はあまり知られていませんが、お釈迦様はみなさんご存知かと思います。
そこで・・・お寺の本堂の中をよく見てみると、阿弥陀如来さまが御安置してありますが、
お釈迦様の姿はどこにも見当たりません。右側には宗祖・親鸞聖人
左側には8代宗主・蓮如上人。向って右余間には聖徳太子、左側には七高僧です。
お釈迦様ほど有名にも関わらず浄土真宗にはお釈迦様が御安置されていない。
御安置されていないのでしょうか?
御安置されていない訳ではありません。内陣をよく見てみると分かります。
気づかれた人もいるでしょうか。
前に「お経はお釈迦様が説かれたものです。その一つのお話がお経となっている」という
話をしました。お釈迦様が説かれたもの「お経」=お釈迦様=お経。つまりお経の姿を
とおしてお釈迦様を御安置しているのです。示現してくださってあるのです。
その姿が、浄土三部経です。阿弥陀様の前に、4本の巻物が御安置されています。
そこには、『仏説無量寿経』上下巻・『仏説観無量寿経』・『仏説阿弥陀経』の3冊です。
お釈迦様は、この浄土三部経の中に阿弥陀様のことを特に説かれています。
お釈迦様のお話を聞かれた人は、たくさんいたでしょう。
王様や修行僧・そして日々の生活を営む人々です。
この浄土三部経は、日々の生活を営む人を目当てとした、阿弥陀様の事が説かれているのです。
つまり、お釈迦様御在世の時に、私たちがお釈迦様から直接お話を頂けるならば、
般若経よりもこれら「浄土三部経」なのです。
本堂にお釈迦様が御安置されていない訳ではありません。
お経の姿、教えを通して私たちが阿弥陀如来のご法義に出会えた上で、
お経をお釈迦様の示現として御安置しているのでした。
登る太陽は、光が私の所に届けば、私は「朝だ!」と気づくのです。
私が「朝だ!」と気づく事が朝になる条件ではなく、私に光が届いた時に、すでに朝になっています。
この譬えは、阿弥陀様を光と喩え、気づく私が「お釈迦様」です。
苦悩する私たちを見捨てん仏さまが、阿弥陀如来さまであり、必ず私の事を
見捨てられません。必ずまた会える世界(お浄土)に導いてくださるのが阿弥陀如来さまです。
この世の中で、その仏さまに一番最初に気づいた人が、お釈迦様だったのです。
仏陀(ブッダ)といいますが、悟った人・目覚めた人・覚者と訳されます。
何に気づかれたのか、それは「いつでも・どこでも」私の事を見守ってくださる阿弥陀如来さまだったのです。
阿弥陀様とお釈迦様