新しいお寺のかたち

専明寺(下松市)浄土真宗

限りあるいのち

私のいのちって、どんな命でしょうか。
長く生きた命なのか。これからまだまだ生きていく命でしょうか。
命って、人によって様々ですね。私たちの見るいのちは、上手に説明することは出来ない、
不思議なものなのです。
平均寿命といわれる尺度を持って見ると、私は今年30歳ですので、まだまだ生きる命でしょうが、
この世の中に「絶対」などありません。無常の中のいのちの一つですから、それがやがて終わる時が来る。
明日かもしれないし、明後日かもしれない。それは誰にも分からない人それぞれの不思議な命なのです。
また30歳でも長く生きたいのちとも言う見方があります。昔は七五三と言って、3歳・5歳・7歳を越えて
大きくなる事も難しい時代があったので、幼い命から見れば長く生きた命でしょう。
甥っ子姪っ子から見れば、もう「おじちゃん」ですので、長く生きた命でしょうから、本当にいのちとは
様々で不思議なものなのです。
すべての命のうえでは、必ず限りあるいのちの中で過ごしています。
・・・限りあるいのち。よく聞く言葉ですが、よくよく聞き流してしまいませんか?
私の命も例外なく、無常の命なのです。
動物だって、植物だって同じです。
あの夏のセミだって、1周間から10日間一生懸命に鳴いて、秋を知ることなく
やがて終える時が来る。
年は取りたくないし、老いたくもない。
健康で常にいたしいし、死にたくもない。
すべてこの世に命がある以上、かなわない事なのです。
じゃあ、この世に命を受けたことが、最大の不幸なのでしょうか。
いのちの見方によって様々ですので、不幸のど真ん中で終える人もいるでしょう。
けれども、不幸では終わらない生き方・いのちがあるのも確かな事です。
阿弥陀様(阿弥陀仏)は、生きとし生くるすべての命の上に、はたらいてくださっています。
この命の終わりに、極楽浄土を準備して、この悟りの世界に乗せて必ず渡しゆく仏となられた、
唯一無二の仏さまなのです。
この世の中に生を受け、虚しく終わっていく命を涙し、我が事のように悲しまれ、
この命をなんとかしたいという心を起こされた仏さまなのです。
様々な仏さまがいらっしゃいますが、その仏さま、また神様にはそれぞれ由来があります。
阿弥陀様は、この世に生を受け、虚しく終わっていく命を止める(救う)ために、世にお出ましくださった
仏さまでありました。
私の代わりに修行し、この私の上に届くように、南無阿弥陀仏の念仏(名号)となって、はたらいてくださいます。
この世に生を受けたことが不幸で終わらないようにと、南無阿弥陀仏のお念仏と成り、私に届いているのです。
南無阿弥陀仏のお念佛は、阿弥陀様からのお喚び声です。「かならず救う、あなたを死んで終わらせはしない。我に任せよ」
の喚び声・はたらきなのであります。
この世に生を受けた受けたことが不幸の始まりではありません。どこから来た命なのかも分からない私ですが、
姿や形を変えては、生まれ変わり死に変わり、何度も何度も無限に繰り返してきたいのちなのではないでしょうか。
この度、人間に生まれてきて、やっと仏教に出会う事が出来ました。
親から生まれて、縁が結ばれ、念佛申す人間へとお育てくださった事でありました。
親鸞聖人は、阿弥陀様の救いをこのような歌で読まれています。
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
  摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
何度も迷いの世界を輪廻してきた、多くのいのちのうえにはたらき、
この念佛に遇った私たち(あなた)を決しては見捨てない、
必ず抱きとって、救ってくださればこそ「阿弥陀」となのり出てこられた仏さまなのです。
あなたの命は、虚しく終わっていく命ではありません。
もうすでに、仏になる尊い命・存在なのです。
不幸になるために生まれてきたのではありません。
多くの方にお育て頂き、いま仏となる御縁を頂いた、尊いいのちでありました。