願いの力にふれて -阿弥陀さまの本願力-

結婚披露宴での出来事

ある友人の結婚披露宴に参加された方のお話です。

披露宴も終盤にさしかかり、新郎の感動的な挨拶が終わり、新郎新婦は会場から退場されました。エンドロールの映像が流れ始め、それまで少し薄暗かった会場がパッと明るくなりました。すると突然、天井からヒラヒラと大きな紙吹雪(ペーパーアート)がたくさん舞い降りてきました。とても綺麗な、心憎い演出でした。

私は、「そろそろ二次会に向かわなければ」と一緒に来ていた友人と話しながら、足早に会場を後にしようとしておりました。

その時です。会場にアナウンスが流れました。

「ただ今、天井からペーパーアートが舞い降りて来ております! 実はその中に『アタリ』と書いてある紙が2枚だけ紛れ込んでおります! 見事『アタリ』を見つけた方は、出口で新郎新婦から素敵なプレゼントを受け取ってお帰り下さい!」

このアナウンスが流れた瞬間、私はどのような行動をとったか。出口に向かっていたはずの私は、くるりと方向転換をして、床に落ちていたペーパーアートを夢中になって拾い集め、「アタリ」の紙を探し求めていました。

私を動かした「願い」

私の体は、二次会会場という次の目的地に向かって、確かに歩みを進めていました。しかし、アナウンス一つで、いつの間にか自分の最初の意志とは全く反対の方向へと歩んでしまっていたのです。

もちろん、直接のきっかけは「アタリが出たらプレゼントがもらえる」というアナウンスが聞こえたからではあります。しかし、考えてみれば、そのようなアナウンスをさせ、そして私にそのような行動をとらせた、その根底にあるものは、数か月も前から、「どうすれば出席者の皆さんに喜んでもらえるだろうか」と一生懸命に企画を練っていた、新郎新婦の「ゲストに喜んでほしい」という強い願い、その思いでした。その思いが、アナウンスという形をとり、私を動かしたのです。(ちなみに残念ながら、私が「アタリ」を見つけることは出来ませんでした。)

本願力との出遇い(親鸞聖人の御和讃)

親鸞聖人は、その著書『高僧和讃(こうそうわさん)』の中に、阿弥陀さまのおはたらきについて、次のように示してくださいました。

本願力(ほんがんりき)にあいぬれば  むなしくすぐるひとぞなき  功徳(くどく)の宝海(ほうかい)みちみちて  煩悩(ぼんのう)の濁水(じょくすい)へだてなし

《現代語訳》  阿弥陀さまの本願のはたらき(本願力)に出遇ったものは、誰一人として、迷いの世界にむなしく留まり続けることはない。阿弥陀さまの限りない功徳をそなえたお名前(南無阿弥陀仏)は、まるで宝の海のようにこの世界に満ち満ちており、どのような煩悩の濁った水(私たち自身)であっても、決して分け隔てなさることはないのである。

「本願」とは、阿弥陀さまから、この迷える私たちすべてに向けられた「必ず救う」という切なる願いのことです。そして、その願いが、ただの思いに留まらず、実際に私たちの上に届き、私たちを変化させていく、そのはたらきを「力」、すなわち「本願力(ほんがんりき)」と言います。

阿弥陀さまに導かれて

阿弥陀さまの「必ず救う」という願いの言葉(南無阿弥陀仏)を聞こうともせず、仏さまに背を向け、自分の都合ばかりを追い求めて反対方向を歩んでいた、この私。その私が、今こうして阿弥陀さまの方を向き、静かに手を合わせてお念仏申す身になっている。考えてみれば不思議なことです。

私の方から仏さまを求めていったわけでもないのに、阿弥陀さまとの尊いご縁が、今、このように結ばれているということは、決して、私自身が何か特別なことを求め、動いたからではありませんでした。

そうではなくて、阿弥陀さまの方が、この私を見捨てることなく、どのような仏さまとのご縁も見逃すことなく、常にこの私にはたらきかけ、この私をお念仏申す身へと育て、導き続けてくださっていたからに他なりません。その力こそが、阿弥陀さまの願いの力、すなわち「本願力」でありました。

浄土への歩み

今、私は、この阿弥陀さまの本願力に抱かれながら、この厳しい、しかし尊い人生を、わが身の至らなさ、あるまじき姿(煩悩の姿)を省(かえり)みつつ、阿弥陀さまのお浄土へと向かう道を、一歩一歩、歩ませて頂いている、その確かな道中であります。