新しいお寺のかたち

専明寺(下松市)浄土真宗

3つの回向

お経の終わりに、「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」という四句を称えます。
【書き下し】
願わくはこの功徳をもって、平等に一切に施し 同じく菩提心を欲して 安楽国に往生せん」
【現代語訳】
(阿弥陀如来さまの)願いは、このお念仏の功徳をすべての人に施し、みな仏となりたいという心を起こさしめ、お浄土に生まれせしむ。
このようになるかと思います。この四句を回向句(えこうく)といいます。
回向について、今日はお話をしたいと思います。
回向とは、「回」と「向」という漢字二字から成っています。
「回」とは、回す、回転というように、自らの所に留めておくのではなく、相手に向けることです。
「向」とは、向かう、方向というように、対象を正面に向けることです。
つまり、この回向句とは阿弥陀如来さまが衆生を救いたいと願われ、功徳・手立てを私たちに
振り向けていることを表しています。(浄土真宗では、主語が阿弥陀様です。阿弥陀様→私に功徳を振り向ける)
しかし、一般的に回向とは他の仏教教団でも使用する言葉なので、簡単に意味の違いを抑えておきます。
意味は3つあります。
・1つは、浄土真宗の上述のように、阿弥陀仏→衆生へ功徳という関係
・2つには、自らの修行・功徳を自らの手立てとして、自らが救われていく。功徳を自分の為に使う。
・3つには、他人に回向する事で、自らの修行・功徳を他人に施す。手立てとする
この3つがあります。どれも仏教ではありますが、浄土真宗は①番です。
②は、自力の教えですので、比叡山など千日回峰等の修行道の教えです。
③は、菩薩道ですので、私たちが行えることではなく、一般の人がするのは真似ごとであり、
自らの往生・悟りが定まらずに行うのは、迷子の人が迷子の人を心配して頼りとならないものを、
頼りにしているものと同じです。
①は他力(阿弥陀如来の救い)、②は自力の教え、③は菩薩様の行う行ということです。
分かりやすいように、喩え話を1つ。
ある子どもが修学旅行に行くために8万円を準備しなければなりませんでした。
それを知っていたので、親はこっそり子どものために生活費から少しづつ子どものために
お金を蓄えていました。その子どもが親に言います。
②修学旅行のお金を貯めるために、バイトをする。自分で蓄えて自力で修学旅行に行くんだ。
もしくは、③同級生が小さな財布を取り出して、頑張って貯めていたお小遣いから、少し分けてもらって
修学旅行に行くんだ。
親の立場から見て、この子どもの行為はどのように見えるでしょうか。
子どもが頑張ってバイトをしたところで、8万円も大金なんで間に合いません。
友達を頼りとするなんて安心できません。
子どもの素質・すべてを見通しておいたからこそ、親は子どもが思う前よりご準備くだされたのです。
子どもは、ただただその思いを受け取るだけでいいのです。なにもいい子だから、可愛いから、
見返りがあるから準備したのではありません。それは、親に対する「子ども」だからです。
①の回向とは、その心です。この私の自力の修行が間に合うなんて分からない。
他人の回向なんて頼りとできない、だからこそ「南無阿弥陀仏」のお念仏に
功徳を込めて私に届けていたお念仏なのです。
修学旅行には、親が準備してくれたお金で行くことができますが、この命終えた時に、
お金は何の意味も持ちません。ただ阿弥陀如来さまがご準備くださった功徳の宝、
お念仏を持って浄土に参り、仏とさせていただくのです。