新しいお寺のかたち

専明寺(下松市)浄土真宗

道俗時衆等 各発無上心

道俗とは、僧侶と俗人のことです。

道俗とは、「出家した僧侶も出家せず生活する人々も」ということです。

善導大師がこの中で最初に表したかったことは、阿弥陀様の救済は僧侶も俗人も男も女も、大人も子どもも一切関係なく、救いの対象であることを表しています。

すべての人々が阿弥陀様の救済の対象であることは、私も「あなた」も救いからこぼれ落ちることはありません。ですので、どんなに寂しい別れがあったとしても、決して苦しみ迷う世界には落ちることはないとお示しくださっているのです。

もしこれが、僧侶だげが救われる仏さまだったらどうでしょうか?きっとみなさんは、阿弥陀様を大切にすることはないでしょう。お坊さんの中でも、修行できる者もあれば、修行できない者もいます。知識に関しては千差万別であるから、きっとお坊さんの世界でも優劣がつき、苦しみ迷うことは変わらないでしょう。つまり、僧侶だけ救う教えであったら、それはこの世界の苦しみと変わらず、そこには救いはないでしょう。

また立派な人だけを救うという仏様だったらどうでしょうか。「あなた」は立派な人間の部類に入れますか?私は長年僧侶をしていますが、私よりも立派な人はたくさんいます。立派とも思えない人も、またたくさんいるかと思います。その境界線ってどこなんでしょうか?

自分にとって都合が良い人は、きっと素晴らしい人だ、立派な人だと思うでしょう。自分の価値観に当てはめて、人を敬い、人を見下す人間があるのでしょう。それは誰でもない自分なのです。立派な人だけが救われる教えならば、きっと私はこぼれ落ちることでしょう。

だから、「道俗時衆等」と示されたのは、出家したものも、出家していない俗人も救いの対象ですよ。「あなた」も「あなたの大切な人も」必ず救われていける道があるのですよと最初に示されたのです。

無上の心とは、阿弥陀様の最上級の救済

「各発無上心」とは、おのおの無上の心を発すべしと記されています。無上とは、「この上ない」ということです。最上級の言葉です。阿弥陀様の救済は、この上ない救いであることを表します。

ここで大学受験を例に考えてみたいと思います。

みなさん何かしらテストを受けて受験されたことがあるかと思います。資格だったり就職だったり、バイトの面接なんかでも、合否は付き物です。その中でも大学受験を例にあげるならば、みんなが入ることが出来る「大学」って聞いたら、どう思いますか?

あまり良い大学ではないとお思いでしょう。反対に、東京大学とはどんなイメージでしょうか?日本最難関の大学で、入れる人はごく僅か、厳しい試験をくぐり抜けた者だけが入れる日本一の大学です。「私は東京大学出身です」と自己紹介したら、きっと私を見る目が変わるでしょう。(私は龍谷大学の出身ですので、永遠にそんな自己紹介は出来ませんが)東京大学は素晴らしい。だから、あなたも素晴らしいと人を見る価値基準も大きく変わるのではないでしょうか。

みんなが入れる大学は、劣っている。限られたものだけが入れる大学の方が勝っている。それが人々の見方かと思います。

大学は公平なテストがあり、学生はその目標を目指して頑張るので、受験はそれで良いと思います。

しかし、しかし人生の行き先、死後の世界ではどうでしょうか?みなさん死後の世界に、最難関の道をくぐり抜けていけるのでしょうか。きっと難しいでしょう。難しいというか、この社会の中で生活するという事は、自力で浄土へ向かう道は閉ざされているも同然です。

そこで阿弥陀様は考えられました。どうにかして、すべての人を浄土へ迎えとりたいと考えました。そして、僧侶も俗人もすべての人が救われる道を考え抜いた方法が、阿弥陀仏にお任せするという方法でした。

私たち個人の力では、千差万別です。ですので、私たちに変わって阿弥陀様の救済に私たちは身を任せることのみが、浄土にゆけるただ1つ道であるとお示しくださったのです。

それが無上の、この上ない救済であり、最上級の救いの手立てでした。

阿弥陀様が、「あなたを必ず救う」と誓い、はたらいてくださいます。

私たちは、その阿弥陀様に身を任せること、それが「無上の心を発す」ことであり、他力の信心と言われるものです。

私が信じて救われていくのではない。阿弥陀様が必ず救うとはたらいてくださっている、その御心に気づかせて頂くことが浄土真宗の生き方と言えます。