新しいお寺のかたち

専明寺(下松市)浄土真宗

願入弥陀界 帰依合掌礼

弥陀界とは、阿弥陀如来の建立されたお浄土のことです。
お浄土とは、聞いたことがあるでしょうが、何の略がご存知ですか??
清浄仏国土を略して、浄土と言います。
お浄土は、妬みや嫉妬、苦しみや差別がない世界だから清らかな世界だと言われます。
一方、我々の住む世界を「仏教」では「穢土」(えど)または「穢国」(えこく)と言います。
「えど」は「穢土」でも「江戸」とは違います。・・・・・失礼しました。
我々の住む世界は、決して楽園ではありません。仏教では「穢土」と示されます。
苦しみ、悲しみから逃れられない世界だからです。
お浄土とは、その苦しみ一切がない清らかな世界であるとお経には示されています。
それは今も昔も、私たちは苦しみから逃れられない存在であることを教えてくださっています。
だからこそ、善導大師は「願入弥陀界」阿弥陀如来の世界に生まれることを願えとお示しくださったのです。
それは、苦しみからの「諦め」ではありません。どうせ苦しいのだから、次の世界に頑張りなさいと言っているのではありません。
その苦しみを、同じく悲しんでいてくれる方(仏様)が、今ご一緒なのですよと教えてくれるのです。
「私の苦しみなんて、誰もわかってくれない」
「私なんて存在価値のない、ただの独りぼっちなんだ」
社会のみんなが私のことを見捨てたとしても、決して見捨てにはならない方(仏様)がいらっしゃいます。
この世の中が穢土(苦しみの世界)であるとご覧になられ、
その苦しみ悩む私を目当てとして、いつも心配してくれる方(仏様)がいらっしゃるのです。
その方と、また会える世界をお浄土と申すのです。
そして、「帰依合掌礼」その方に身をお任せして、合掌礼拝しなさいとお示しなのです。
(ここから難しくなります)
仏説無量寿経には、阿弥陀様がこの世にお出ましになられたエピソードが説かれています。
阿弥陀如来、または阿弥陀仏と申し上げますが、最初から仏さまだった訳ではありません。
昔々、まだ法蔵菩薩と言われるころ、世自在王仏(せじざいおうぶつ)という仏様のもとに
いらっしゃいました。そこで、たくさんの仏さまの世界(仏教にはたくさんの仏様がいます、そのすべて)をご覧になり
その仏さまの国土をご覧になり、そこに住む方々をご覧になられました。
しかし、かつての法蔵菩薩さまは、それで満足はしませんでした。
なぜなら、それらの仏の国々に行くことができない人がいたからです。
そこで、すべての者が救われる、仏となれる世界を作りたいと願い、そしてご修行されました。
そうして完成したのが、阿弥陀如来のお浄土だと『仏説無量寿経』には説かれています。
そうして、その国々にみなが生まれるようにと、すべての人々がこのはたらきに出会えるようにと
重ねて誓われたのが「重誓偈」というお経になります。
爾時次有佛 名世自在王 (省略) 時有國王 聞佛說法 心懷悦豫 尋發無上正眞道意 棄國捐王 行作沙門 號曰法藏 高才勇哲
與世超異 詣世自在王如來所 稽首佛足 右繞三帀 長跪合掌 以頌讚曰・・(省略<讃仏偈>)・・・
佛告阿難 法藏比丘 說此頌已 而白佛言 唯然世尊 我發無上正覺之心 願佛爲我 廣宣經法 我當
修行 攝取佛國 淸淨莊嚴 無量妙土 令我於世 速成正覺 拔諸生死 勤苦之本 佛語阿難 時世饒王佛
告法藏比丘 如所修行 莊嚴佛土 汝自當知 比丘白佛 斯義弘深 非我境界 唯願世尊 廣爲敷演
諸佛如來 淨土之行 我聞此已 當如說修行 成滿所願 爾時世自在王佛 知其高明 志願深廣
即爲法藏比丘 而說經言 譬如大海 一人升量 經曆劫數 尚可窮底 得其妙寶 人有至心 精進求道不止
會當剋果 何願不得 於是世自在王佛 即爲廣說 二百一十億 諸佛刹土 天人之善惡 國土之麁妙
應其心願 悉現與之 時彼比丘 聞佛所說 嚴淨國土 皆悉覩見 超發無上殊勝之願 其心寂靜 志無所著
一切世間 無能及者 具足五劫 思惟攝取 莊嚴佛國 淸淨之行 (四十八願・重誓偈)→天地が震えた
とお経にはあるのですが、漢字ばかりでは難しいですね。
でもよくよく見てみると、
・世自在王仏
・覩見  無上殊勝願
・五劫思惟
・天人之善悪
とか、見覚えのあるフレーズがありませんか?
そうです。正信偈の一節に
在世自在王仏所(ざいせじざいおうぶっしょ)
覩見諸仏浄土因(とけんしょぶつじょうどいん)
国土人天之善悪(こくどにんでんしぜんまく)
建立無上殊勝願(こんりゅうむじょうしゅしょうがん)
超発稀有大弘誓(ちょうほつけうだいぐぜい)
五劫思惟之摂受(ごこうしゆいししょうじゅ)
と、長い長い仏説無量寿経を、親鸞聖人は短くまとめて教えてくださったのです。
もちろん原文は仏説無量寿経ですので、その意味が分かっていなければ、短くまとめても「ちんぷんかんぷん」です。
仏説無量寿経が正信偈のおかげで「少し」身近に感じることが出来ませんか??